岩里祐穂が語る、作詞家としての歩みと矜持「時代を超える言葉を編み出したい」

岩里祐穂、作詞家としての歩みと矜持

「インパクト重視ではなく、等身大のリアルな女性像を描き出そうとしていた」

今井美樹「PIECE OF MY WISH from“25th Anniversary Concert Tour 2011 LOVE & BLESSINGS~Miki's Affections~”」

――90年代に入って、岩里さんは今井美樹さんの歌詞を手掛けるようになります。それは岩里さん自身にとっても大きな転機になりましたか?

岩里:そうですね。

――これは、それ以前の作詞のお仕事とどう違っていたんでしょうか?

岩里:もう全く違いますね。今井さんとのお仕事は、オファーをもらって書いたのではなくて、こちらから「こういう楽曲がありますがどうですか」とプレゼンしたところから始まりました。上田知華さんという作曲家と一緒に「黄色いTV」という曲を作って、それを誰に持っていく? というところから始まった。それ自体が初めての経験でした。

――そうなってくると、歌詞の書き方も変わってきますね。

岩里:そうですね。80年代にはインパクトを求められて、そこでもがきながら頑張っていた私としては、そうじゃないところで書ける人に出会えたということなんです。内面を掘り下げることができた。そして、今井美樹さん自身もそういう80年代とは違ったものを求めていた。そこにうまく合致できたのかもしれないですね。インパクト重視ではなく、等身大のリアルな女性像を描き出そうとしていました。

――「PIECE OF MY WISH」という曲は今井美樹さんの中でも代表曲となっていますが、これは岩里さんの中ではどんな位置づけになっているんでしょうか。

岩里:この曲は恋愛のモチーフが全く入らない歌として初めて書いたんですね。だから、そういう意味ですごく大きな変換期になったと思います。

――それ以前はラブソングが主体だった。

岩里:80年代は特にそうです。全てにおいて、恋愛をモチーフにしていた。人を励ますにしても、失恋した友達を励ます歌だったり。つまり、恋愛を通して何かを表現していた時代なんですね。だから、80年代は恋の歌ばかりじゃないでしょうか。それに、もっとエロティックでしたし。アイドルの曲も、今と比べると山口百恵さんの頃からショッキングで刺激的な内容の歌が多かったように思います。大人の男性が歌詞を書いていたからかもしれないですけれど。

――「PIECE OF MY WISH」はどんなきっかけで書いた曲だったんでしょうか。

岩里:この曲は今井さんが主役のドラマ主題歌で、「ちょっとだけ落ち込んでいる友達を励ます歌にしましょう」ということをプロデューサーさんから言われて書き始めたんです。OLの成長物語だから恋愛はそこにはなくていい……と言われたかどうかは忘れちゃったんですけど。とにかく私としては入れたくなかったんですね。恋愛がからまない、もっと大きな世界観のもとで、元気を出そうとか、自分を信じようとか、悩みながらも前向きになれる歌を書きたかった。それができたのは嬉しかったですね。

――当時は女性が自立して社会に進出していく流れもありましたよね。そういう時代の空気とも重なりあったということもあるかもしれない。

岩里:今井美樹さんは、私がそれまで書いてきたアイドルの方たちと明確にスタンスが違って、自身の意思を持っていました。もっとリアルに「自分の幸せとは」「自分の生き方とは」ということを見せていたし、考えていた。仕事もあるし、恋愛もある、そんな中で自分で生き方を選んでいきたいっていう女性像がみんなに支持されたんだろうと思います。女の子たちもみんなそういう風に考えていたと思いますね。生き方を歌った、という意味で言えば、ちょうどその頃のMr.Childrenにしてもそうだと思います。90年代はバンドの時代だった。みんな、より自分のことを人生のことを歌詞に書きはじめた。そういうふうに繋がっていったんだと思います。

――今仰ったように、90年代にはJ-POPという言葉が一般的になり、それ以前の歌謡曲の時代とは変わってきますよね。そこにおける一つの象徴が、バンドやシンガーソングライターのように自分で歌詞を書くアーティストの存在だった。

岩里:そうですね。アイドルはだんだん下火になっていった。そうすると、作詞家の仕事も少なくなっていった時代ですよね。ただ、私はそこで今井さんという“居場所”を得ることができた。それは大きかったと思います。

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