清竜人25とAwesome City Club、初期コンセプトをめぐるそれぞれのやり方

初期衝動かコンセプチュアルか、それが問題だ

 今の時代の女性グループアイドルは、AKB48の選抜総選挙を引き合いに出すまでもなく「生身のパーソナリティーをそのままステージに上げる」「それによって生まれる予想のできないカタルシスを楽しむ」ことに価値が置かれている。そんな中において、グループ結成時に固めた「設定」を演じる清竜人25の手法は独特なものに見える。

 この話をロックシーンに当てはめるとどうなるだろうか。ロックバンドにおいても、基本的には前述のアイドルのケースと同じく演奏者の「リアル」が重視される傾向にある(と言うよりも、アイドル側がロックバンドのやり方を踏襲していると言った方がより正確かもしれない)。着の身着のままでステージに出ていって、等身大の言葉を爆音に乗せて発した瞬間、普通の兄ちゃんが急にかっこよく見えるというマジック。そんな発想が、ここ最近のメインストリームで活躍するロックバンドの通奏低音となっているように思える。

 一方で、何かしらの「設定」をはめこんだうえでかっこいい・面白いことをやろうとする人たちも存在する。代表例として、MAN WITH A MISSIONを筆頭とする「お面バンド」があげられるだろう。また、メンバー全員が「オカモト」を名乗るOKAMOTO’Sもここに該当すると言える。

 アイドル・ロックバンドを問わず、「設定」を介する表現を成立させるにはいくつかの条件がある。そもそものアウトプットのレベルが低かったり、またアウトプットと関連性のないような「設定」が持ち込まれていたりすると、途端に「寒い」「狙いすぎ」といった誹りを免れない状況になる。また、それを浸透させるためにはネガティブな意見を多少受けたとしてもめげずにやり続ける必要もある。もちろん、その「設定」自体が持つインパクトの強さも求められるだろう。「一夫多妻のアイドルグループ」「頭はオオカミ、身体は人間のロックバンド」、いずれも普通の発想からは出てこないアイデアだろうし、それゆえ謎の吸引力がある。

 日本の音楽シーンにおいては、アーティスト、メディア、リスナー、それぞれの立場において自然主義的な価値観、つまり現実をありのままに描写するというスタンスが好まれる印象がある。初期衝動を音に直接ぶち込むアーティストはもちろんかっこいい。ただ、自らの表現の強度を高めるための「設定」の構築に初期衝動を捧げるのも、アーティストの一つの生き様として肯定されるべきものだと思う。

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