兵庫慎司の「ロックの余談Z」 第6回
リズムという概念のない男ーー『やついフェス』の蛭子能収に衝撃を受けた
たとえばラップと日常会話の違いは色々あるが、もっとも異なるのは、ラップがリズムに乗って発されるが会話はそうではない、ということだ。あたりまえだ。今こいつがしゃべってるテンポ95BPMぐらいで、しゃべり終わりが2拍目だったから4拍目のとこで半拍食って(シンコペーションして)「でもさあ」って言おう、とかいうふうにはしゃべらないでしょ? 日常会話で。自分のペースで、自分の速さでしゃべるでしょ? どうやらそれと同じらしいのだ、蛭子さんにとっての歌というものは。
歌が終わり、蛭子さん、ひとしきりみんなにつっこまれまくったあと、次は「歌で戦うなんてやめろ!」と仲裁に入るという体で、忌野清志郎完全コスプレのワタナベイビー(ホフディラン)が登場、“雨あがりの夜空に”を歌う、という展開になったのだが、ここでまた彼の特異性が露わになる。
蛭子さん、ステージ後方で、他の出演者に合わせて手拍子をしたりサビで腕を左右に振ったりしているのだが、その手拍子の打ち方も、腕の左右の振り方も、本当に「なんとなく」やっているのだ。何にも合わせていない。何の規則性もない。まるでかゆいところをかく時のように、頭に手をやる癖のある人のように、手拍子を打ったり腕を左右に振ったりしているのである。
たとえばスピッツの草野マサムネは、ステージでギターを弾きながら歌う時に腰を左右に揺らすくせがあるが、その揺れ、いつも曲のテンポとは違う。違うが、一定の規則性を持って左右に揺れていることが見てとれるので、きっと本人の中に何かあるんだろうな、と観る側は納得できる。しかし、蛭子さんは、それですらないのである。
彼が歌い始めてからステージから去るまでの間、共演者たちも超満員のオーディエンスも終始爆笑していたが(中にはコムアイのように「感動しちゃいました」と泣いていた人もいたが。蛭子さんが女性誌で連載している人生相談の愛読者だったりして元々ファンだったから、みたいなことをおっしゃっていました)、僕はただただ心底驚いていた。
蛭子能収モンスター説というのは、古くは浅草キッドが著書などで、最近では伊集院光がTBSラジオ『深夜の馬鹿力』などでネタにしてきたことなので、サブカル系オヤジ&青年&少年の間で広く知られた事実だ。僕にしても、80年代にガロや宝島で蛭子さんの漫画を読んでいた頃はそんなこと知るよしもなかったが、ここ数年、キッド&伊集院の薫陶を受けてきたおかげで(伊集院からはいまだに受けている。6月22日の『深夜の馬鹿力』でも、その2日前に放送された蛭子さん出演の『路線バスの旅』の話をしていたし)、そのモンスターっぷりは把握しているつもりだった。昨年8月に角川の新書から出た蛭子さんの著書『ひとりぼっちを笑うな』も、すぐ買って読んだし。
しかし。歌までモンスターだとは知らなかった。しかもこんな、我々の常識や既成概念を根本から覆すレベルの。
僕は10歳で初めて自分の意志でレコードを買って、13歳から洋楽を聴くようになって、15歳からアマチュアバンドを始めて、22歳で株式会社ロッキング・オンに入って、音楽雑誌を作って売ることが仕事になって……つまり、それなりに音楽に密接な人生を送ってきたつもりだった。しかし。リズムという概念を持たない人がすることは知らなかった。自分の人生、何か、根本的な大きな見落としをしたままで、ここまできてしまったのではないか。という衝撃に、今、新たに打ち震えています。
ただ、一晩寝て起きて、ひとつ思い出した。