アイドルのあり方はどう変化してきたか  気鋭の論者が43年分の名曲群から読み解く

ピロスエ「最終的にはみんな、つんく♂のファンになっていく」

——先ほどの大作家が成立しない、という話ですが、その中ではつんく♂さんをどう位置づけたらいいでしょう?

ピロスエ:つんく♂に影響を受けたフォロワーのような人たちがぽつぽつ出てきているし、これからも出てくるんじゃないかと思います。まあつんく♂さんと同じようなことをするというのはなかなか難しいとは思いますが…。

岡島:ももいろクローバー『行くぜっ!怪盗少女』を最初に聴いたときには完全なるつんく♂フォロワーというか、つんく♂さんに影響を受けたからこそ生まれたのだと思いました。

ピロスエ:『怪盗少女』とその影響元のひとつであろうモーニング娘。の『そうだ!We're ALIVE』が一冊に載っていて、ページをめくれば同じフォーマットで掲載されているのがこの本の意義かな、と自負しています。

岡島:音楽の多様性みたいな側面からいうと、おどる♥11『幸せきょうりゅう音頭』とか、ハロプロの中でもともとありましたからね。当時、思春期だった世代はそこで「何やってもいい感」を植え付けられました。70〜80年代はソロアイドルが多くて歌謡曲寄りのものが売れていました。今でもそれがアイドルのイメージという人は多いと思います。でもその後、ハロプロとモーニング娘。がやってきたことを見て、音楽的には何でもアリなんだ、という感覚を持てたと思います。

ピロスエ:70〜80年代くらいには、やっぱりひとつの定型みたいなものがあって、そこから踏み越えていないところは傾向としてありますね。

栗原:ハロプロはシステムとして珍しかったと思います。おニャン子がモデルになっているんでしょうけれど、秋元康とは違う形のコミュニティを作って、そこを全部仕切る、というスタイルを初めてやったのがつんく♂だったのかな、と。従来の歌謡曲システムのプロダクション的な体制では、プロデューサーはいても楽曲は外注していたわけですが、つんく♂の場合はそれをすべて自分で抱えてしまった。そんな人、ほかにいなかったですよね?

ピロスエ:メジャーアイドルシーンで作詞・作曲を両方やっていてあれだけ多作なのは、つんく♂か中田ヤスタカぐらいでしょうね。モーニング娘。やBerryz工房はつんく♂の依り代という面があります。入り口として誰かのファンになって、ファンを続けていく内にハロプロの他のグループも聴くようになって、最終的にはみんなつんく♂のファンになっていくんですよ(笑)。

栗原:つんく♂はシャ乱Qというバンドをやっていましたが、職業作詞家、作曲家としてのスキルは、経験的にも当時それほど高くなかったと思うんです。音楽教育を受けて作曲の訓練を積んで、というタイプじゃなくて、バンドでギター弾いていた、という口ですよね? つんく♂の前に小室哲哉というモデルがいましたけど、キーボード・プレーヤーに比べて、ロック系のギターの人ってどっちかと言うと音楽理論的な面に強くなかったりするし、メロディメーカーであっても引き出しが少なかったりする。そんな一般的なイメージがあったので、つんく♂氏が突如、大量に楽曲を作り出したときはビックリしたんですよね。行けるのか!? 走れるのか!? みたいな感じで。

岡島:時代に合わせた幅の広さは何なんでしょうね?

栗原:おそらく、その時々で、これっていう助っ人(アレンジャー)を見つけ出す嗅覚が秀逸なんじゃないですかね。まさしくプロデューサー的に。

さやわか:ハロプロの場合は、ハロプロが始まった時点でアイドルが停滞していたせいもあって、楽曲がつんく♂に集中するというか、ハロプロのみにあらゆるジャンルがぶち込まれていったようなところがあったと思います。今はグループがたくさんあって、それぞれがそれぞれの音楽をやっていますけれど、当時は何でもモーニング娘。にやらせる、というようなところがたぶんあったんでしょうね。楽曲の量も異常に多かったし。今が「何でもあり」の時代になったのも、そうやってシーンが停滞していた頃にハロプロへの一点集中があって、アイドル楽曲の自由さというものが多くの人に認知されたからこそ招かれた状況のように思いますね。

栗原:それにしても、ハロプロがこんなに巨大化・長期化するとは、最初にモーニング娘。を見たときには想像もしなかったですねえ。最初はホント、企画モノだと思ってましたから。

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