『1995年』著者、速水健朗氏インタビュー(後編)
「小室哲哉は地方のマーケットを見抜いた」速水健朗がJPOP激動期としての90年代を分析
先日、新著となる『1995年』を出版した速水健朗氏。同書では戦後史の転機となったこの年の出来事を政治・経済・社会・文化と「横に読むこと」に試みている。前回のインタビュー『速水健朗が語る"1995年”の音楽シーン「中間的な領域に面白い音楽がたくさんあった」』では当時の東京における音楽シーンについて語ってくれた彼に、今回は地方の状況とヒットチャートの関わりについての話を中心に訊いた。
――1995年に最も売れたシングルはDREAMS COME TRUEの『LOVE LOVE LOVE』でした。
速水健朗(以下、速水):ドリカムは出てきたときと売れてきたときで印象が異なる存在で、「うれしはずかし朝帰り」で出てきた時は都会的な音楽を演るミュージシャンとして印象深かった。けれど、そこから数年で、すごくメジャーになっていく過程で変化しましたよね。『1995年』のなかではユーミンとの比較で書いたんだけど、ドリカムの吉田美和に感じられるのは、都会への憧れのなさなんですよね。都会を記号的に描くのがユーミンの特徴だとすると、吉田美和は、地元に根ざした詞を歌っていたんです。それが、とても90年代半ばの感じにマッチしていた気がします。「カウチポテト族」の生活? 金曜日の夜にデートムービーをTSUTAYAで借りてきて、それを観ながら夜は家で楽しく過ごし、翌日には車でドライブデートみたいな。そこでは、必ずドリカムがかかっているみたいな。その背景には、郊外型レンタルビデオ屋の普及と『ゴースト/ニューヨークの幻』のようなデートムービーの流行と、自動車普及率の増加が関わっています。
実は1995年は戦後初めて大都市部への人口流入が減少した年でもあるんです。これは、不景気の影響で多くの若者が上京せず地元に留まったということなんでしょうけど、そうした背景には、それを肯定するような都会よりもジモトという価値観も生まれていて、それをドリカムの音楽が体現していたこともあると思います。
――チャートに目をやると小室哲哉プロデュース、いわゆる「小室系」が台頭してきたのもこのころです。
速水:90年代前半に、小室哲哉はTMNとして全国ツアーを行っているんですけど、地方公演のあとに小室はファンをディスコに集めて、DJパーティをやったんですね。それが自分たちのファンがどういう音楽を好むのかを知るためのマーケット調査になって、のちのエイベックスと組んで以降の小室仕事につながっていく。最初はtrfですよね。彼は日本のマスの消費層が地方にいることに気付いたんです。都会のリスナーに向けて音楽をつくってもダメなんじゃないかという疑問を、なぜかこの頃の小室は考えたんです。いわゆる渋谷のWAVEで売られているような音楽とはまったく違う方向性に舵を切った。
そのtrfが1994年から1995年にかけてシングル5作連続でミリオンセラーを記録したことは、その小室の戦略の正しさを証明した結果ですよね。小室哲哉は90年代に、クラブミュージックをJPOPに導入したという評価をされますけど、僕はそれはちょっと違うと思うんです。むしろ、マスなマーケットが地方にあることを見抜いたんです。同時代の朝本浩文が手がけたUAのようなものとは、正反対ですよね。当時の音楽シーンを、都会的、地方的で区分けすると、まったく違ったものとして見えてくる。これは、単なる地域性と消費の問題というよりも、この頃から発生している政治性の違いみたいなものと考えてもいいかもしれません。