立川シネマシティ・遠山武志の“娯楽の設計”第24回
映画館にとってエンタテイメントとはなにか? 立川シネマシティ、効率化と真逆を行く戦略
東京は立川にある独立系シネコン、【極上爆音上映】等で知られる"シネマシティ"の企画担当遠山がシネコンの仕事を紹介したり、映画館の未来を提案するこのコラム、連載開始2周年を迎える第24回は、それを記念して本質的な話をさせていただけたらと思います。"エンタテイメントとはなにか?"というテーマで。
実はこの連載、小さくしか書かれていないのでほとんど気づかれていないと思いますが「娯楽(エンタメ)の設計」というタイトルでやってます。これは我が敬愛するエルンスト・ルビッチ監督作『生活の設計』をもじったものです。
これまで映画館としてどうやってお客様にエンタテイメントをもたらしていくかということを、具体例を挙げて書き連ねてきましたが、区切りが良いのと、年の初めということで、そもそも僕がエンタテイメントをどういうものと考えているかを書こうと思います。
エンタテイメントという言葉は、日本では、例えば華やかなステージでの歌とダンスとか、大爆発&カーチェイスとかを売りにしている映画なんかを指すことが多いですね。悲劇とか、偉人の伝記とか、社会問題を告発するものにエンタテイメントという言葉はあまり使われません。
ですが僕は「娯楽」という言葉をもっと広義に捉えています。マイナス感情や知的な思索を促されるものであっても、なんらかの心動かすものであれば、それは突き詰めれば「娯楽」であると考えるからです。
人によっては、不道徳で残酷な映像や写真に胸ときめくし、難解な数式だらけの専門書にも興奮をかきたてられます。つまりあらゆる行為が「娯楽」になり得る可能性を孕んでいるということです。
最近の映画ネタに関連付けて言うならば、たとえば『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』の賛否を議論したり、アカデミー賞ノミネートの傾向を分析して結果を予想したり、「#MeToo」問題についての最新動向を追うこともまた、「娯楽」になり得ます。
逆に言えば、人生は死ぬまでの暇つぶしなどとよく言われますが、そう定義づけると、呼吸するとか血液を循環させるというようなこと以外は、人間の行為すべては「娯楽」のためということになります。むろん、そこまで行ってしまうと「娯楽」という言葉の意味がかなり希薄になってしまいますが。
紙幅も限られますのでカンタンにまとめますと、希望、興奮、快楽、スリル、歓喜やなんかだけでなく、人は絶望、哀しみ、憐れみ、恐怖などの感情も「娯楽」として求めることもあるし、物理学の難問を解くということや、社会が抱える問題を憂えてみせること、健康に悪いと知りつつ何かの中毒に陥ることも「娯楽」であるというのが、僕がこの連載で書いている「娯楽」の定義です。とにかく人はどんな瞬間も「感情を動かし/動かされたがっている」と僕は考えます。退屈に耐えられないのです。
では、その欲求にどうすれば応えられるでしょう? そのひとつは「想定以上であること」。これを提示することが「楽しませる/エンターテインする」ということです。
映画なら、遥かに観客の想定以上の献身的な愛を見せられたとき、想定以上のおぞましい怪物が襲ってきたとき、想定以上の美しい映像が映されたとき、その作品は傑作と称されることになります。日常ではついぞお目にかかれない、犠牲、暴力、美貌、誠実、狂気などを求めて、人は映画を観るわけです。想定以上、つまり、驚きです。驚きこそが、すべての感動の源泉なのです。
脳は、情報処理を効率化するために、経験したあらゆることをパターン化して、以前に見たものは再び見てもよく見えなくなります。感じてもあまり感じなくなります。差異しかはっきりと認識しなくなるのです。それが脳の構造です。ここに刺激を与えることが「娯楽」ということになります。そして脳は、刺激を欲しがっている。
エンタテイメントとはこのようなものだ、ということが自分の皮膚感覚にまで染みこんだら、僕のような映画業界の末端の仕事に従事する者であっても、強力な指針になります。
例えば僕が企図した【極上音響上映】【極上爆音上映】は、デジタル化でどんどん容易に効率的に上映できるようになっていることへのカウンターであるわけです。