シネコンは“アートスペース”にもなれる? 立川シネマシティ『映画 聲の形 inner silence』の挑戦

『映画 聲の形 inner silence』の先鋭性

1)流れるのは、律動や旋律という音楽のエンタテイメントを構成する部分がほとんどないタイプのアンビエントミュージックにして、たいていの交響楽よりも長大な、120分間途切れない1曲、というべき楽曲であること(最後の最後のあの場面で、ようやく曲が切り替わる)。この時点ですでにかなり実験的。

2)通常映画の音楽というのは、映像の補完や感情の増幅のために存在する従属的なものだが、「inner silence」版は小学生の日常に不穏な低音が響き続けるなど、見ている映像と音楽がぴったり合っていない。加えて【極音】上映では大音量ということもあって、逆に映像のほうが音楽に対し従属的になる。

3)ミュージックビデオを想像するかも知れないが、ほぼ別物。元々の映像はミュージックビデオのようにイメージショットで構成されているわけではなく、完全にストーリーを語っている。なので、映像だけでも物語をあらかた追えてしまう。

 とはいえ、サイレント映画のように映像は説明的ではない。もともとセリフがあることが前提となっているため。それゆえに、ストーリーを追えたり、追えなかったりする。これが大きなポイントのひとつになる。

4)すでに複数回みているような方は、映像自体はエンドロールに到るまでまったく変更されていないため、耳から聞いている音とは別に、記憶の効果音と音楽が鳴ってしまう。つまり精神の内側で2つの音を同時に聴くことになる。

5)すでに見た記憶が曖昧な方や初見の方にとっては、顔のアップにならないと誰がセリフの話者なのかすらもはっきり認識できない。当然セリフで語られているストーリーは把握できず、効果音も鳴らないために視点が誘導されず、聞こえている音楽も非説明的なので頼りにならない。それでもなんとか物語を紡ごうとして、通常の映画鑑賞ではありえないほど作品理解に能動的にならざるを得ない。映像や音のそこかしこに“意味”や“理由”を探してしまう。

6)ミニマルな音楽をライブハウスのような大音量で浴び続けることで、やがて一種の酩酊状態のようになってくる。これは家庭では味わえない感覚。しかもパブリックな場所には椅子に座り続けさせる強制力があるので、そこから逃れようがなく、音と映像に向き合わざるを得ない。緊張感を生むサウンドと環境でありながら、精神をぼんやり麻痺もさせられ、その異様かつ静寂なる精神状態で、自分の思考、内面と向き合わされる。

7)似たような作品にディズニーアニメーションの最高傑作と称される「ファンタジア」があるが、むしろ真逆。「ファンタジア」は有名クラッシック楽曲に、アニメーションをつけたオムニバス作品で、アニメ部分にはセリフも効果音もないが、優れた作り手の想像力によって描かれたアニメによって、むしろ音楽のほうが後から合わせて作られたのではないかというほど絵と映像がぴったり合っている。そこには映像と楽曲の調和の快楽がある。だからむしろ音楽だけであることを忘れてしまうほどのエンタテイメント。

 しかし「inner silence」版はそうではない。音が音楽だけであることを否応なしに突きつけられる。ただし、わずかながらいくつかの場面で、絵と音がぴたっと合う瞬間があり、そこにかえって強い感動を覚える。

8)これは「聲の形」の別ヴァージョンというより、「聲の形」を音楽によって解体して再構築する試み。アニメーションを観るというより、現代音楽やパフォーマンスアートを味わう感覚に近い。そもそも本編も含め、今作で流れる楽曲自体がバッハの「インベンション」というピアノの練習曲として知られる曲を、椅子の軋みやペダルの音、あるいはミスタッチなどの演奏ノイズも含めて録音して、エレクトロニカ的に加工している。それはこの物語を、主人公のコミュニケーションの“練習”とみなして、という理由であり、そもそもの成り立ちから明確に言語的な意図があるコンセプチュアル・アートのようなものである。

9)それをさらに突き詰め、すでに完成され公開された娯楽作品に音楽的変更を加え、高音質、大音量で再生可能な場を用意することによって、“鑑賞者に映画を鑑賞するという行為とは何かを思考させる”この上映は、マルセル・デュシャン的な意味で“レディ・メイド”と言えるかも知れない。

 この上映はいわゆる普通の映画がストーリーを味わうものであるのに対して、ストーリーを味わうということはどういうことなのかを問いかけてくる。デュシャンの「泉」が芸術鑑賞という行為に同じく問うたように。

10)このように書くと先鋭的で難解なもののように感じられるかも知れないが、映像はあくまでも美少女とイケメンの青春ラブストーリーであって、テーマは重くても娯楽的な今風のアニメ。映像まで難解でアブストラクトなものならば完全に美術館でなすべきものになるが、そうではないことが最大に面白いところ。そしてシネコンというポップな場所で行われることが、その“意味”を強化する。

 見た目は完全に娯楽的なパッケージでありながら、音声(とその再生方法)だけが際立ってアート的であって、ふつうのビックリマンチョコだと思って開けたら、シール柄が天使でも悪魔でもなく、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングだった、というような感じが近い。その時おそらく多くの人が、これまでになくじっくりと、ポロックの作品を眺めることになるのではないか。裏の説明書きは、ちゃんとビックリマンシールとして使われたものであるほうがいい。そうすれば、読んでは裏返し、絵を再確認し、ふたたび説明書きを読むはずだ。一体どういうことなんだ、これでは開けたこっちがビックリマンじゃないか、という意外性と理解できなさが、思考を刺激する。これはそういう上映だとも言える。

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