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菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 特別編

菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評 第二弾:米国アカデミー賞の授賞式を受けての追補

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菊地成孔
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参考:菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね

 掲載稿が米国アカデミー賞の発表前に書いた原稿なので、結果を踏まえた上で、追補を書くことにした。

 と、思っていたら、どういうわけだか、筆者のリアルサウンドでの連載中、最も多いビュー数と、いいね!数を稼いでしまったとか何とかで、有り難いと言えば言えるのだろうが、一度SNSを全部止めてみればわかるが、何が起こっているかわからない。

 ただ、数多く俎上に登ったのであれば、これは当然、数多くの支持者と、数多くの不支持者を生んだと思われるが、支持されるにせよ、されないにせよ、何れにしても、この映画に対し、以下の指摘はなかったか、或いは極端に少なかったのではないか? と推測する。

 それは何かと言えば「ハッキリ言えなくて気の毒だ、言っちゃえば良いのに」という事だ。

 え? なんて言っちゃえば良かったのか、って?

『セッション』はエグくて興奮したが、『ラ・ラ・ランド』はオサレくさくて自分の趣味じゃない」に決まってるじゃないか

 後述するが、デイミアン・チャゼルの小悪魔ぶりはなかなかのものがあり、今回、相当多くの人々に「おやおや?」と思わせた筈だ。上記の本音を、絶対に言わせないように無言の圧力をかけたのだから。

 生贄にするつもりはないが、特に気の毒だったのは、WOWOW恒例の米国アカデミー賞の授賞式中継番組で、過去、『セッション』を、オールタイムベストぐらいの勢いで褒めた二人である。

 上記の本音を抑圧され、つまり、<『ラ・ラ・ランド』が主要部門独占の最右翼!>という世論=番組の流れ。に肯定的でいなければならず、一応、自分の意見は持っていますという態で、片方は「自分は『マンチェスター・バイ・ザ・シー』が推しです」という(彼のこの推しが嘘だとは全く言わないが)、発言によって、苦しい抵抗を試みるが、まあ、軽く針の筵であったろうことは想像に難くない(本人は否定するだろうが)。

 もう一人は、キャラクター上「有識者の立ち位置」を取らざるをえず、とはいえそんなもんお座敷有識者であって、<『ラ・ラ・ランド』が主要部門独占の最右翼!>という、世論に対し、 <おぞましくてハードコアなもんは好きだけど、ロマンティックでドリーミーでおしゃれ。というのは、僕はちょっと>という、彼を追っていれば、これが順当だろうと思うしかない発言を、とうとうできないまま、途中から(『ラ・ラ・ランド』の旗色が陰って来た辺りから)「ま、わかりませんよね。『それでも夜は明ける』が(『ゼロ・グラビティ』『ダラス・バイヤーズクラブ』『アメリカン・ハッスル』『her/世界でひとつの彼女』が有力、という)下馬評を抑えて受賞。ということもありましたから」と、予防線を張っていたりした。彼は普段、「予算が小さく、マニアックだが志の高い、つまりマイノリティ映画の味方」を自認しており、『セッション』から『ラ・ラ・ランド』へ、という流れが、その視点で言えば転向である事を批判しても良かった、というより、批判したほうがはるかに株が上がった筈だと思うのだが、げに世論とは恐ろしい物だ。

 両者の高い(皮肉ではない)映画選球眼ならば、『ラ・ラ・ランド』が、よしんばミュージカル映画史をどうこう言う教養主義から離れたとしても、感覚的に大したことない、という事は、ほぼ間違いなくわかっていた筈だ。チャゼルくんなかなか罪つくりでございます。ラース・フォン・トリアーと似ている。せっかくヴェットした人々を後々困らせるのだから。

だあってですよ

 よしんば彼らが<自分が『セッション』を褒めたからといって、『ラ・ラ・ランド』も自動的に褒めるという話ではない。自分は苦手だし、それ以前に評価できない>とか何とか、誠実に発言したとしても、それでもまだ、この回答は不正解なのである。何故なら、筆者の指摘通り、テイストが違うだけで、両作はほとんど同じ構造を持った、ほとんど同じ作品なのだから。

 「え? 構造よりもテイストですよね? どんなもんだって」という指摘が入るだろう。その通りだ。『気狂いピエロ』と『新ドイツ零年』の構造はある意味でほぼ一緒だ。だが、多くの人が躊躇なく言う。『気狂いピエロ』のが、ロマンティークでスタイリッシュで、自分はそっちのテイストが好きだと。何故か?『新ドイツ零年』は世論が大絶賛していないし、受賞レースの権威も無いからである。

 これが、「本音抑圧」のシステムである。結構な仕打ちだと言えよう。

そして、あの「世紀の大珍事」は

 オーメンの主人公と、牛と仔牛を縦に真っ二つに切断したり、輪切りにした動物やそれを腐敗させたものの展示で天下を取った現代美術家と同じ名、デイミアンの呪いとしか言いようがない。

 あの「単にもらえないよりも数倍きつい」梯子からのエゲツない突き落としは、「アカデミー賞史上最年少で監督賞獲得」という栄誉と引き換えに交換されたとしか思えない。デルタブルースの起源として有名な、クロスロードの伝説に似ている(悪魔に魂を売り渡すかわりに、歌とギターの天才的な腕前を貰える)。悪魔に魂を売ったのである。と、以上、大変長くなったが、『ラ・ラ・ランド』という映画に関する大変重要な余談である。

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