菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第12回
菊地成孔の『アズミ・ハルコは行方不明』評:「若い映画」なのか、「そんなに若くない映画」なのかはっきりしてくれよ
エッジなのか90年代なのか00年代初中期なのか、瑞々しいのか、結構スキルフルなのか(以下、100項目)
はっきりしてくれ。それがこの映画のすべてである。以下、画面に映るあらゆるものが、見る者に「どっちなのかはっきりしろ」と言わせしめる本作の「はっきりしてくれポイント」を列記するが、それがほんの一角であることは間違いない。
本作は、デイケイドで切れる「世代感覚」も、ジェンダーも液状化し、そして何より「(誰もが、もうインターネットによって、そんなものは無くなった、と自動的に考えがちな)地方と東京の差。は、実のところとんでもなく大きい」という前提に対する両極の評価すら液状化している、いわば液状化の二乗のようなことまで含めて、「はっきりしない」ことの集積として全体像を成している。
そして、少なくとも筆者には、それが全く心地よくはなかった。「はっきりしないこと」がもたらすことの90%は煩悶である。そして煩悶は、快楽にも不快楽にも転がる。「はっきりしてくれよー! くそー(笑)」と言いながら、ヒーヒー言って快楽を得る、という現象だって、世の中には腐るほどあるというのに。
1)エッジなロックミュージシャンである石崎ひゅーいは、(本作では)銀杏BOYZや神聖かまってちゃんの、自動的な焼き直しなのか(音楽家としては全く別種=新種であることは、音楽批評もする身として、念のため明言しておく。石崎は「神聖かまってちゃんのルックスをした森山直太郎」であり、極端な歌唱スキルを持っている)。
2)監督はエッジがやりたかったのか、自分の青少年時代である(85年生まれ)90年代ノスタルジーがやりたかったのか。
3)蒼井優と高畑充希の演技力は好一対なのか、同質のものなのか(回答を言うならば、後述するが、完全な同質である)。
4)ニューカマーでも中堅でもないチャットモンチーが提供した主題歌が「14年にすでに発表されているが、映画の主題歌としては8年ぶり」という複雑な事実は、フレッシュなのか、お古なのか。
5)実質上の男性側主役である太賀は、憎むべき悪人なのか、憎めない悪人なのか。
6)「知らない顔の俳優」が出てこない、つまり構造的な新しさがない本作を「瑞々しく斬新な青春映画の決定版」と謳って憚らない、プロデューサーを筆頭にした関係者全員は、本気でそう思っているのか、心の底に疑念を持ったまま、必死でそう思い込んでいるだけなのか。
7)芹那の役柄と演技プランは、傑作テレビドラマ「最高の離婚」からの焼き直しなのか、原作に忠実な、いわば本作の完全オリジナルなのか。
8)女子高生の暴行集団は、実在するのか、象徴的存在なのか、その中間もしくは混合物なのか。
9)あのアニメは、メディアミックスとしてイケているのか、全く必要ないのか。
10)この作品はアート寄りなのか、アート寄りという風合いの娯楽作なのか? だとしたら、誰がどう感動するのか? 誰もどうにも感動しないのか?
この段階でベスト10とばかりに10項目しか挙げていないが、誠実に網羅すると今回のレヴューは、その一覧で終わってしまうだろう。それでは批評ではなく単なる煉獄的な煩悶だ。
何から何まで「どっちなんだよう」という煩悶だけに終始する批評、というのもある種コンセプチュアルではあるが、筆者はこの、凄まじいとすら言える煩悶の嵐から脱する回答を非合法エリアで、だが持っているので、それを突破口に批評を続けることにする。