菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第11回
菊地成孔の『ぼくのおじさん』評:出演者全員が新境地を見せる、のほほんとした反骨映画
「作家」と「職人」(今は誰だ?定義は?)
この、恐らく邦画界では60年代あたりに一般化し、その後の紆余曲折を経て、一度は廃れ切ってしまったものの、また再び、ここ数十年ほどで、気がつけば驚くほどの活況を呈している邦画界の中で、ルネサンスしても良さそうな、しないほうが良さそうな、ある区分の問題系に於いて、山下敦弘ほど突きつけてくる監督はいない。本作は、山下敦弘の最新作である。
山下敦弘は作家か? 職人か? 最も元も子もない回答は「作家であり、職人である」あるいは「職人的な作家」であろう。
この回答は、山下敦弘個人に対して最も元も子もない上に、一般論としてかなり脆弱である。「そんなこと言ったら、今、誰だってそうだよ。岩井俊二のデビューからシネコンの定着までにデビューした映画監督は全員<作家であり、職人>でしょう。でないと、アカデミー賞外国語映画賞の日本からの15本目の監督が滝田洋二郎である説明がつかない(その前が「たそがれ清兵衛」の山田洋次なので、ヨージからヨージローに発育したのだとか言わない限り)」 と反駁されたら、かなりのクリティカルヒットになることは間違いないからである。
あの黒沢清ですら「ある種、職人」と定義するのは難儀ではあれ可能だ。誰もがガチンコの作家だと信じて疑わなかった園子温がすっかり職人になるという転向の図式を肯定するのには、些かの難儀さも必要ない。
アンダー30の若いユーザーは全員が言うだろうか? 「あのう、作家とか職人って、なんの話ですか?」。筆者の考えではノーである。彼らは言いそうで言わない。この世にゴダールがいる限り、この世にホン・サンスがいる限り、この世に、庵野が、松本人志が、空族が、いる限り。「映画監督に、作家だの職人だの言う区分ってあるんですか? 意味わからない」という「映画ファン」は、恐らくATGがあった60年代にも、ディレカンがあった70年代にもいた。現在も、数こそ知らねど間違いなく存在するであろう「作家も職人も意味がわからない映画ファン」たちは、彼らの末裔であろう。
再び、山下敦弘は何故?
作家なのか職人なのか? という問題系によって、我々を軽くザワつかせるのであろうか? 筆者の考えでは、その基準の一つに「原作の選択」が組しているのは間違いない。
それは、大根仁という対照物を置くと明確になる。大根の代表作は、多くが漫画原作である。大根仁に作家性を見出すのは難儀か安易かで言えば難儀だ。つまり、良くも悪くも全くザワつかせない。大根仁は、紛うかたなき職人監督である。世代もポジションも違うので対象物としては不適正だが、三池もまったく、同じ問題系の中に納まる。
勿論、漫画というメディアがダメだとか素晴らしいという話では、ましてや、職人である大根がダメとか素晴らしいと言っているのでは全くない。漫画を映画の原作にするのは、小説から原作にするのとは、第二には構造が違い(いうまでもないが、漫画から映画は「絵から絵」だが、小説から映画は「文字から絵」である)、第一には、特に我が国の、すでに古語であるガラパゴス/ジャパンクール性という、文化的な特殊性と密接に関係がある。
つまり、こういう事だ。「今、我が国で、人気漫画(なるべく連載中)原作のエンターティンメント/オーヴァーグラウンド映画を定期的に制作している監督が、最も職人監督らしい職人監督なのである(ついでにテレビドラマも)」という定義は、荒唐無稽ではないのではないか?
山下の原作傾向
どちらかといえば多作家に属し、安定した打率を誇り、そのすべてが例外なくエンターテインメント作品である山下だが、漫画原作は『天然コケッコー』だけである(『超能力研究所の3人』に関して筆者は「準・漫画原作」とカテゴライズしている。漫画には違いないが、有名な漫画ではなく、タイトルも原作漫画と違うからである)。
『オーバー・フェンス』『苦役列車』『マイ・バックページ』が小説もしくはエッセイ(いかな有名で、作家性と適応関係にあるとはいえ、「エッセイ」を脚本化するというのも、変わった行為ではある)、『リンダ リンダ リンダ』『松ヶ根乱射事件』が、先行企画ありとはいえオリジナル、『もらとりあむタマ子』もそうだ。
この「ヒット漫画もやるが、最低限にしている。小説原作もオリジナル脚本も、満遍なくやる」という統計において、山下と類似する監督に是枝がいる。是枝は『空気人形』『海街diary』が漫画原作だが、満遍ない。因みに山下と是枝は「ぺ・ドゥナの起用でヒットを飛ばした唯二人の日本人監督(『リンダ リンダ リンダ』『空気人形』)である。
「体制は漫画だ」とまでは言わないが
20世紀的な意味での反逆者、反骨精神のイメージとは大きくかけ離れている、山下、是枝に共通する、外柔内剛的な、当たりはマイルドだが芯の強い印象の元となる、一種の反骨精神のようなものが「どんどん漫画原作をやって行く、という流れに流されない」という、どの程度意識しているのかさえわからない(筆者はクリエーターのインタビューの類は読まないので、作風からのみの判断になるが)ダンディズムに起因しているのはほぼ間違いない。「満遍なくやる」のであれば、年に2作平均だとして、2年おきに漫画原作を扱うのが統計というものであろう。
更に、山下の特異点は
今や一流脚本家の一人と言って差し支えないであろう、向井康介との関係である。デビュー時にはコンビ的な癒着を見せていた両人だが、現在では「作品によっては組んだり、組まなかったり、そして互いに独立して一流」という関係にある(向井の脚本最新作は『聖の青春』)。
これは、(ファンタジーギリギリの)理想像としての結婚。に換喩可能である。婚姻があるとき、協力関係でデビューし、名声を得てからは、離婚はしたものの、互いに独立して成功し、ケース・バイ・ケースでパートナーシップを結ぶ。
監督と音楽監督、監督と主演俳優、監督とプロデューサー等々、マリアージュに換喩可能である関係は多岐にわたるが、山下と向井の関係は、少なくとも日本の若手(と言ってもオーヴァー40だが)としては類例がない。山下を今「外柔内剛の反骨精神の持ち主」と仮に断言してしまったとして、では何故、山下が我々をザワつかせるのか?今は死語であると同時に、その効果は都市伝説に過ぎなかったことを証明しているサブリミナル効果のようにして、「山下が、是枝と類似性を持ちながらも、まだ特異点(向井との関係)がある」点が挙げられるだろう。
適度に感動させ、適度に考えさせ、適度に満足させ、大きな失策を決して犯さない山下の先品群が、我々をザワつかせるのは、20世紀的な、「俺はプログラムピクチュアの職人だが、こだわりと魂は絶対に捨てねえ」といった、貧困と左翼性の合併症的な反骨精神とは違う、まさに今日的としか言いようがない、瑞々しく、強弱では計れない、新しい反骨精神に貫かれているからであろう。