菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評 第二弾:米国アカデミー賞の授賞式を受けての追補

菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評/追補

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 結果として『ラ・ラ・ランド』は米国アカデミー賞13部門ノミネートの中から、監督、主演女優、作曲、主題歌、美術、撮影の6部門を獲得した。

 筆者は本稿で書いた通り、主演女優は『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』のナタリー・ポートマン、作曲も『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』のミカ・レヴィの方が遥かに優れていると思うが(こんな映画音楽聞いたことない上に、ものすごく美しく効果的である。つまり、未来的だ)、監督は悪魔と取引して、世紀の大珍事(『珍事』と言うには痛すぎる、悪夢的なものだが)と引き換えに獲得しているので致し方ないし、主題歌は対抗馬にディズニー系レリゴー再びしかないので、順当と言える(美術と撮影も、まあ『ムーンライト』のが全然攻めの姿勢で素晴らしいとは思うが、肝心の作品賞をとっているので、さしひき順当、と評価している)。

 アンチの立場をとる筆者でさえも、『ラ・ラ・ランド』の、「ミュージカルシーンの音楽」の質は認める。中でも一番良いのは、冒頭のワンパンを食らわせる「アナザー・デイ・オヴ・サン」である。歌詞が「ドント・ストップ・ビリービン」(『glee/グリー』の実質上の主題歌)のパクリだとしても問題ない。この曲はウエルメイドである。元ネタはミエミエだが、それも全く問題ない。良くできていれば良いのだ。

とーこーろーが。だ

 最優秀主題歌賞にノミネートされたのはこの楽曲ではない。ダブルノミニーは、主人公二人が歌う「シティ・オヴ・スターズ」と、エマ・ストーンがオーディションの時に歌う「オーディション」で、受賞したのは「シティ・オヴ・スターズ」だけだが、この2曲は、作曲構造の完成度としては「アナザー・デイ・オヴ・サン」に劣る。

 「そんなもん、作曲の優劣に構造なんか関係あるかい」と言う指摘が入るだろう。その通りである。筆者は仕事柄、楽曲の構造を聴取/分析する耳を持っているが故に、だが、作曲の優劣と構造の巧みさが、絶対的な関係ではないことは熟知している。音楽には魔法の領域がある。

 とはいえ構造の完成度と楽曲の優劣は絶対的な無関係でもない。作りが雑な曲はやはりそれなりの馬脚を現すのだ。以下を根拠とする(とはいえ以下、アカデミー賞授賞式と、グラミー賞授賞式をどちらも見ている、つまりWOWOWコンシャスな方にしか手に取れない証拠で申し訳ないが)。

 今年、ジョン・レジェンドはグラミー賞授賞式では、今年の死者追悼の場面でザ・ビーチ・ボーイズの「ゴッド・オンリー・ノウズ」(伝説の『ペット・サウンズ』収録。ポール・マッカートニーはこの曲を聴いて「今まで聴いた曲の中で最も美しい」と絶賛した)をピアノで弾き語りし、アカデミー賞授賞式では前述のダブルノミニー、「シティ・オヴ・スターズ」と「オーディション」を歌った。

 現在、ソウル/R&Bで最高クラスの歌唱力を持つジョン・レジェンドによる両者を(おそらく既に上がっているだろう動画サイトかなんかで)聴き比べてみてほしい。「ブライアン・ウィルソンと比べちゃ気の毒だろ」等と言うなかれ、アカデミー賞最優秀主題歌賞である。

 そしていうまでもないが、前者のパフォーマンスは背筋が凍るほどの感動と美しさ、後者は、どうしちゃったのよジョン。というほどスッカスカなのである。これがレジェンドのコンディションとか、ショーの演出などが原因ではなく、楽曲そのものに原因が集中しているのは言うまでもない (セット以外は全部同じ、というぐらい、両者の演出は同じで、レジェンドは「今日はコンディション悪そうだな」と言ったタイプではない。精密機械だ)。

とはいえこれは「曲の優劣」とかいうシンプルな話ではない

 むしろ「曲の強弱」といったほうが若干正しい。

 ジョン・レジェンドという、特にバラードの天才的名手が歌う事が定点観測的な比較基準となったが、「ゴッド・オンリー・ノウズ」は、誰が歌おうが感動を担保する、強い曲である。

 に、対して「シティ・オヴ・スターズ」と「オーディション」は、作りが稚拙で弱い事を露呈してしまった。繰り返すが、それは勿論、優劣ではない。ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンという、「そこそこ味のある素人」が歌うと、この曲はもの凄く輝くのである。つまり、ヘタウマ対応であり、演繹的に『ラ・ラ・ランド』専用、とも言える。

 特に、エマ・ストーンが歌う「オーディション」は、歌詞の意味も、メロディラインもよくわからず、脚本と歌唱のヘタウマが、楽曲の弱さと共鳴しあって七難隠したが、ジョン・レジェンドという高性能装置にかけると、構造上の稚拙さ(専門的に言うと、各パートがあまり練られておらず、転調の刺激だけで進行力を作っている。チャゼル・マナーのそっくりそのままトレーシングであり、ある意味凄い)がむき出しになってしまう。

 「ポップ・ミュージックを国宝や文化遺産と考えてしかるべき合衆国で、こんな弱い曲がアカデミー賞最優秀主題歌賞をとったら音楽批評家としての筆を折る」とカマしておいても博打には勝ったが、そもそもこの曲がノミニーになっていることさえ知らなかったのである(ダブルノミニーと聞いていたので、てっきり片方は「アナザー・デイ・オヴ・サン」だと思っていた)。

このことが示すことは

 『ラ・ラ・ランド』が、ヤオイである以前に、ヘタウマであり、さらに言えば「ダンスは、危なっかしさがありながら、結構いける。歌はいっそヘタウマのがいい。ピアノは、、、、まあ、どっちでもいんじゃない」という、「スキルフルである事への階級=ヘタウマ度数の階級」が根底にあることを示しており、同時にそれは、「なんだって全部スキルフルでないといけない」という、現在のエンターテインメント全体を覆っている、構造的な硬化(主に、経済的、政治的な厳しさとリンクしている。平和で潤っている時代にはヘタウマが賞揚され、戦前的で厳しい時代には芸能はハイスキル化が止まらなくなる)へのアンチとなって、奇妙な治癒感覚をもたらすのである。

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