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映画に選ばれた女優、広瀬すず−−『四月は君の嘘』で見せた“共感を求めない”演技の凄み

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 是枝裕和監督の『海街diary』で大抜擢されてから、3本目。大器の本領が、いよいよ本格的に発露している。とにかく、映画の神に“選ばれてしまった”感がハンパない。彼女がスクリーンで否応なく輝いてしまうのは、なぜなのか。広瀬すずが有している非凡な存在感について、最新主演作『四月は君の嘘』を通して考えてみたい。

 この映画の中で彼女は、ほぼ同世代の山崎賢人、石井杏奈、中川大志と共演しているが、ひとりだけ芝居の質が違う。その“違和”は、映画を最後まで観たとき、その大オチとともに、ある種の納得感さえもたらすが、そうした物語構造とは別の次元で、広瀬の演じ手としての稀有な資質があらわになっている。

 いま、多くの若手が自然体の演技を志向する。ざっくばらんに言えば、自然体とは演じる者が自分自身に引き寄せて“自然さ”を捏造することである。つまり、自分が生きている日常と同次元に物語を引き寄せる。そこで、キーとなるのは“もし、自分だったら”という仮定への没入だ。これを、あるときは優しく噛み砕き、あるときはスムースに漉すことで“食べやすい料理”としての演技が完成する。そうして、役者も観客も“自分に近い何者か”を、容易に共有することになる。ああ、わかるわかる、という親密さ、もっと言えば、気安さがもたらされ、安全圏内で虚構を眺めることができるのだ。口当たりはなめらかだが、言ってみればそれは“離乳食”に近い演技である。

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 広瀬は、これをやらない。いや、ひょっとするとできないのかもしれないが、一貫して、“自分に近い何者か”を捏造しない道を選びつづけている。つまり、現代のメディアにおいてほぼ主流となっている“共感”という感情におもねらない芝居がそこでは提示されている。

 「わたし(それは演じ手であり、観客でもある)もそう思う」という、ある種の媚びをいかにスマートに隠蔽するかが自然体と呼ばれる芝居のマナーなのだが、広瀬の演技はどうもそうしたことに一切興味を抱いていない印象がある。広瀬が体現しているのは「自分(それは演じ手であり、観客でもある)」ではなく、ただただ“他者”なのである。演じているのは、自身の肉体だが、そこで出現するのは“わたし”ではない“他者”である。こうした、演技のそもそもの基本に、もはや古典的なまでのふてぶてしさで立ち向かっているのが広瀬だ。自然体の演技に慣れた観客であれば、広瀬の芝居はオーバーアクトにも映るかもしれない。だが、“共感”への目配せを微塵も感じさせず、ひたすらに“他者”を浮き彫りにする様は、圧巻である。

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 将来を嘱望されながら、母の死をきっかけにピアノが弾けなくなった天才少年が、自由奔放なバイオリニスト少女と出逢ったことから再生する。これが『四月は君の嘘』のストーリーだ。主に少年の視点から語られる映画において、少女は少年にとっての“他者”として存在する。同級生たちとは何かが違う“他者”。だからこそ、彼は彼女に惹かれる。それが恋だったと知ったとき、物語は終わる。

 ヒロインはある秘密を抱えている。後半明らかにされる彼女の背景から、その心情を推察することはできる。だが、広瀬は徹頭徹尾“他者”として、映画の中に存在する。“わたしを理解して”という振る舞いがまったくない。彼女は、彼女の秘密を、ひとりで抱え続け、そのことを当たり前にしたまま、最後までたどり着く。ここで演じられているのは、決してミステリアスな少女ではない。だが、簡単には要約させない“余白”が巨木のように立っている。推察はできる。だが理解はできないかもしれない。そんな“他者”に対するおののきを、広瀬の演技は観る者にもたらす。明るさも、悲しみも、秘密も、吐露も、それらは人間の100%を示してはおらず、むしろ、そこで彼女が見せなかったもの、そこにこそ本質があるのではないかと想像させる。広瀬が、自然体になびかず、超然とした“他者”であり続けたからである。

      

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