「大病で引退寸前」から「カバーブームの牽引者」へ 徳永英明の波瀾に満ちたキャリアとは?

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 「僕はこれを機に、しばらく『VOCALIST』からは離れることを決めたよ」。徳永英明は先日、自身のブログで1月21日に発売される最新作『VOCALIST 6』の告知を行うと同時に、今作で一区切りつけることを示唆する言葉を書き込み、ファンや関係者を大いに驚かせた。

 何と言っても、2005年に始まった『VOCALIST』シリーズは、累計セールスが600万枚を超える大ヒット企画。女性アーティストのバラ−ド系名曲を次々と歌い、その後のJUJUやMay J.などへと続く、J-POP界のカバーブームの先駆けとなった。事実、シリーズ開始以降の徳永は、まさに“名曲を歌う”技術を磨き上げることに精魂を傾けてきたし、『VOCALIST 6』はその集大成といえる高い完成度を示している。同作は1月14日よりiTunesでの音源配信も始まり、早くも1位を獲得。10周年という記念すべき時期に、同シリーズと徳永自身に一体どんな変化が訪れたのだろうか?

 もっとも、徳永英明のキャリアは波瀾万丈そのもの。長い下積みを経てデビューを果たし、20代でヒットを連発してシンガーソングライターとして頂点を極めたが、長いスランプや度重なる闘病を経て、一時は音楽界で「過去の人」扱いとなり、再起不能と見られた時期もある。今回のコラムでは『VOCALIST』で劇的な復活を遂げるまでの道のりを振り返ってみたい。

 中学時代から歌手を目指していた徳永英明は、デビューのチャンスになかなか恵まれなかった。高校卒業後はアルバイトを転々としながらTBS「緑山塾」に所属し、俳優業に活路を見出そうとしたこともある。音楽業界関係者に近づこうと、レコード会社が入居するビルにある喫茶店でアルバイトしていた逸話は、ファンにはよく知られている。

 25歳直前でようやくデビューを果たした徳永は、瞬く間に人気歌手の仲間入りを果たす。デビュー曲は今なお代表曲の一つである「レイニーブルー」。甘いルックスゆえにアイドル的人気もあり、テレビ出演も多かったが、彼の中では葛藤もあったようだ。大ヒット曲「輝きながら…」は自身の作詞作曲による作品ではなかったからだ。本人が同曲のヒットを「素直に喜べなかった」と述懐しているように、哀切なバラードを得意とするシンガーソングライターとしての自負心と、きらびやかな世間的イメージは相容れないものがあったようだ。そんな葛藤を乗り越えて生み出された徳永の自作曲が「壊れかけのRadio」。徳永自身が「中学生の頃の音楽にワクワクする気持ちを思い出しながら作った」と振り返る同曲は、シンガーソングライターとしての彼の作家性が、もっとも純粋に表現された楽曲といえる。

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