“なんとなく居心地が良い”あの空間は、どうやって作られてきたのか? ゲームを機に紐解く「ファミレス」の歴史

ゲームを機に紐解くファミレスの歴史

 多種多様な販売形態の登場により、構造や文脈が複雑化し、より多くのユーザーを楽しませるようになってきたデジタルゲーム。本連載では、そんなゲームの下地になった作品・伝承・神話・出来事などを追いかけ、多角的な視点からゲームを掘り下げようという企画だ。

 企画の性質上、ゲームのストーリーや設定に関するネタバレが登場する可能性があるので、その点はご了承願いたい。

 第14回『ファミレスを享受せよ』の元ネタとなった「ファミリーレストラン」の歴史について調べてみた。

 家族の憩いの場として機能し、安価で美味しい食事をすぐに提供してくれる素敵な施設「ファミリーレストラン」。我々現代人からすれば当たり前にあるものだが、その歴史について詳しいという方は珍しいのではないだろうか。

 今回は、月刊湿地帯より販売されているアドベンチャーゲーム『ファミレスを享受せよ』にあやかって、ファミレスの歴史について紐解いていこうと思う。参考にする図書は、今柊二・著『ファミリーレストラン「外食」の近現代史』(2013)だ。

ファミレスが生まれるまで――アメリカ食文化への憧憬

 駅前食堂や大衆食堂などといった具合で、ファミレスが生まれる前から安価な外食産業というのは多くのバリエーションが存在していたが、そのうちからいくつかをかいつまんで紹介し、ファミレス前史としよう。

 明治時代に生まれた「百貨店」は呉服店を母体としていたが、昭和からは電鉄会社を母体としたものが登場してきた。我々がよく知る「デパート」だ。1929年(昭和4年)阪急百貨店が創業。食堂では日本初の食券制が採用され、ライスカレーやソーライス(ウスターソースを白米にかけたもの)などが売られていた。デパートの食堂を通じて、昭和の日本人は「家族で食べる楽しさ」という感覚を知っていくこととなる。

 しかしながら、1940年代には外食産業も太平洋戦争の煽りを受けていった。1940年8月には東京の食堂などで米を出すことが禁止され、各店舗はレパートリーに困るようになっていく。1944年にはビヤホールやデパートの食堂で「雑炊食堂」が開設され、人気を博したが、誰しも好き好んで食べていたわけではなかったようだ。このころ書かれた山田風太郎の『戦中派虫けら日記 : 滅失への青春』に、徐々に東京から食糧が失われていく様が克明に描かれているという。

 終戦後、GHQは横浜のホテルニューグランドを本部とし、多くの持ち込んだ食材を使って料理を作った。ここでホテルニューグランド二代目総料理長の入江茂忠が「スパゲティナポリタン」を思いつき、全国に広めていくこととなる。こういった具合で、戦後、外食産業が復活していくにつれて、日本人のあいだにアメリカの食文化への憧れが根差していったのだった。

ファミレスが生まれた1970年――「ロイヤル」のセントラルキッチン

 戦後、都心部の物価や給料が上がっていくにつれて、駅とつながったデパートの食堂も盛り返してきたが、同時にモータリゼーションもやってくる。家庭用自動車が普及することで、郊外へ足を延ばす一般家庭が増えていったのだ。この時代の到来を予見していた人々がいる。ひとりは江頭匡一。「ロイヤルホスト」の創業者である。

 彼はまだ日本人が米ばかり食べていた1952年に、アメリカのパン文化に着目し「ロイヤルベーカリー」を創業。最新の機械まで導入し、アメリカの美味しいパンを日本に広めようとした。また「ロイヤル」という本格的なフランス料理店を開店し、全国的に評判になる。だが、ロイヤルをファミリーレストランと呼ぶにはまだまだ高価である。

ロイヤルホスト公式サイト:https://www.royalhost.jp/

 その後、江頭は、店舗数をべらぼうに伸ばしている不二家にライバル心を燃やした。自分の店も産業化する必要があると考えた江頭は、セントラルキッチン(集中調理工場)を作る。調理した食材を冷凍し、各店舗に届けるといういまでは当たり前の発想だが、当時はコックや料理誌から「味を画一化するとは客を馬鹿にしている」と批判も受けたようだ。

 しかし、そんな批判など関係なく、1970年に大阪万博が開かれると、ロイヤルはそこに出店。大成功を収めた。これを契機に、ロイヤルは同年から全国展開を開始し、1971年には九州で「ロイヤルホスト」を開店。ファミリーレストランの始まりである。

 ※なお、大阪万博にはケンタッキーフライドチキン(KFC)も出店していた。

すかいらーく1号店――ファミレスという名前の誕生

 この大阪万博が開かれた「1970年」という年は、ファミレス史においてもっとも重要とも言える年であり「外食元年」とも呼ばれている。理由はいくつかあるが(前述したKFCの万博出店など)わかりやすいところでは、同年7月に東京の国立で「スカイラーク1号店」がオープンしたからである。

 創業したのは「ことぶき食品」というスーパーを営んでいた四兄弟、横川端・茅野亮・横川竟・横川紀夫。彼らのスーパーは西友ストアの登場によって暗雲が立ち込めており、どうすべきか悩んでいた。

すかいらーくグループ 公式アイコン

 そんな折、彼らは「ペガサスクラブ」という経営研究団体に所属していたのだが、その団体がアメリカ視察ツアーを組んだことを知った。アメリカの食産業について学ぶチャンスだと思った彼らは、ツアーに参加したのだった。

 そこで彼らは、本格化しているモータリゼーションと、ロードサイドに開かれた安価なダイナーを目の当たりにする。日本も必ずこうなると確信した彼らは、帰国後、道路脇にコーヒーショップを作ろうと検討する。しかし、郊外の新興住宅地に住む家族向けのサービスで、コーヒーショップという名前はビジネスじみてしまっている。

 そこで「ファミリーレストラン」という名前を思いつき、採用したのだった。ここに「ファミレス」という名前が誕生する。

ドリンクバーと呼び出しボタン――「ガスト」によるファミレスの変遷

 70年代に元年と呼ばれた外食産業だが、80年代にはまた違った様相を見せる。まず、1985年に漫画『美味しんぼ』がスタート。グルメブームを巻き起こした。同じタイミングで「激辛」や「イタめし」といったワードも注目され、外食産業はよりいっそうの多様化を見せていく。

 そして80年代後半にはバブル景気が始まり、ファミレス産業は転機に立たされる。人手不足が始まるのだ。ファミレスのウェイターという仕事は、待遇や時給といった面で見向きもされなくなる時代が来たのである。

 そこで、すかいらーくは「ガスト」という店舗を展開することにした。安価なメニューに加えて、ウェイターの仕事を減らすために「呼び出しボタン」を実装。さらにオーダーエントリーシステム(注文時にキッチンへデータが飛ぶ仕組み)とも連動させ、ファミレス界に革命を起こした。

 それだけではない。ガストは「ドリンクバー」も始めた。説明するまでもないことかもしれないが、客が自らディスペンサーのところまで行って、好きな飲み物を飲みたいだけ飲む仕組みのことである。

 バブルを乗り切る施策だったガストだが、これらの変化によってファミレスという空間は「家族が楽しく食事をするための場所」から「子ども同士やカップルたちだけで何時間も粘る場所」へと少しずつシフトしていく。今柊二は著書のなかで「食べる場所からいる場所へ」と表現しており、言い得て妙だ。

ガスト チーズINハンバーグ 筆者撮影

 ――こうしてファミレスの歴史を調べてみると、ファミレスというものは業態や雰囲気を変え、時代に合わせて変化してきたものだというのがよくわかった。たしかに、ここ数十年で家族のあり方が大きく変わったわけで、ファミレスも柔軟に変わっていかねばならないというのは、当たり前の話なのかもしれない。

参考文献・サイト:
今柊二・著『ファミリーレストラン「外食」の近現代史』(2013)
すかいらーくグループ公式HP https://corp.skylark.co.jp/about/history/
国立国会図書館 東京本館 第 145 回常設展示 「外食」の歴史 https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999457_po_145.pdf?contentNo=1

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