『Tシャツが乾くまで』脚本の“荒削り”さを分析 『GTO』との比較でみえるドラマの見せ方

月曜22時の『GTO』(カンテレ・フジテレビ系)と、金曜22時の『Tシャツが乾くまで』(TBS系)。いきなり当たり前のことをいうが、作品のジャンルも然り、作品そのものが持ちあわせているカラーもまるで異なっている。全然違うからこそ、対極という言葉を用いて比較するものでもない。ただ、かたや70代に突入したベテラン男性脚本家である遊川和彦の作品、もう一方は30代前半の若手女性脚本家である生方美久の作品であるという見方をすれば、同じクールに放送された作品のよしみという意味も含めて対極の位置にあるかもしれない。なので、あくまでも脚本の構造という観点から、この両作の“テレビドラマとしての見せ方”の違いのようなものを探っていくことにしよう。

まず『GTO』は、1998年に社会現象を巻き起こした同名作品の続編という位置付けにある。元暴走族で破天荒な高校教師だった鬼塚英吉(反町隆史)が50代になり、妻である元同僚のあずさ(松嶋菜々子)に愛想を尽かされかけ、“グレート・ティーチャー”とは何かという問いの答えを見付けるべく、新たな学校で生徒たちと向き合っていく姿が描かれる。“現代の高校生”という記号的な描写と、そのなかで妙に空回りする“おじさん教師”と化した鬼塚の姿に、前作に熱狂した世代としては何だか心が痛むものがあるが、ドラマとしては非常に単純明快である。

あくまでも鬼塚の行動原理となっているものは、実家に帰ってしまったあずさが戻ってくること。そのために新しい職場をクビにならないように必死でしがみつき、そのためには生徒たちからの高評価を得なければならない。基本的には1998年版と変わらず私利私欲にまみれた主人公ではあるが、それでも生徒たちと熱量をもってぶつかりあう“昭和的”(というより“平成的”のほうが適切だろうか)な価値観で、令和の高校生の心が一人ずつ開かれていき、ドラマが前へと進んでいく。

一方の『Tシャツが乾くまで』のほうは、事故によって互いの配偶者を失った男女の偶然の出会いから始まり、そこに“不在”となった配偶者同士が実は不倫していたのではないかという疑念から物語が動きだす。その後、主人公である咲子(蒼井優)の夫である充(松山ケンイチ)が実は生きていたことが判明し、彼が不在ではなくなることで登場人物たちの感情がかきまわされ、複雑なストーリーへと波及していくことになる(そういえば、『GTO』も『Tシャツ』も、第1話の途中から不在となるキャラクターの名前が“あずさ”という共通項がある)。
両ドラマの構造に非常にはっきりしとした隔たりがあるとすれば、それは物語を司る主要素ともいえる、登場人物の“行動・感情”、登場人物が直面する“事象”の関係性ではないだろうか。『Tシャツ』においては、事故の発生と不倫疑惑、生存の可能性など、主要な登場人物たちを取り巻く“事象”の発生をもって、登場人物たちの感情が動き、行動が決められる。それらがエピソードを重ねるうちに複雑化――すなわち、ひとつが解決しないうちにまた新たな事象が発生したり、関わる人間が増えていったりなど――することによって、テレビドラマとして必要な連続性が担保されていく。

対して『GTO』のほうは、先述したように行動原理が最初の段階で明示されており、かつ学園ドラマである以上、基本的には教師である鬼塚と同僚、26名の生徒たちという人物構造に劇的な変化は起きようがない。そうしたなかで主人公である鬼塚の能動的な行動によって、周囲の登場人物たちの鬼塚に対する感情やイメージといったものが変化していき、その結果として鬼塚への高評価が増える=すなわち、鬼塚という人物を取り巻く事象が着々と変化し、さながら10個くらい貯まったらあずさが家に帰ってくるスタンプカードのように連続性が作りあげられている。


















