『Tシャツが乾くまで』はなぜ“普通の夫婦”を描かなかったのか “逃避”が2人を守る理由

『Tシャツが乾くまで』逃避が2人を守る理由

「独特な夫婦……」

 そう、きっと誰もがフタを開ければ独特なのだ。それでも私たちは、人をざっと見ただけで「普通の人」とか「どこにでもいる人」などと大雑把に見立てたくなる。そこに、自分の想像力の限界があるのかもしれない。

 金曜ドラマ『Tシャツが乾くまで』(TBS系)第9話では、咲子(蒼井優)のこれまで語られていなかった過去が明らかになった。充(松山ケンイチ)のもとから逃げ出した咲子は、一体誰のもとへ向かったのか。海辺に暮らす篤彦(井ノ原快彦)の存在だけを残して幕を下ろした第8話。多くの視聴者が、ふたりの関係を推測した。

 兄ではないか。あるいは、元カレではないか。さまざまな予想が飛び交うなかで明かされた咲子の過去は、そのどれをも鮮やかに裏切る。彼女は過去に4回の離婚を経験しており、篤彦はその最初の夫だったのだ。

好かれるための「フィルター」が壊れたとき

 第8話から続く種明かしの数々に、肩透かしを食らったような感覚を抱いた視聴者も少なくないのではないか。「充って、こんなにメソメソする人なの?」とか、「咲子って、こんなに衝動的に行動する人なの?」とか。あるいは、「こんなドラマだったの?」と思う人もいるかもしれない。でも、その肩透かしこそ、このドラマを見ながら私たち自身がかけていたフィルターが壊れる感覚に近いように思えた。

 作中では、「人間みんなそんなもんですよ。結局自分の価値観でしか生きられませんから」というセリフもあった。私たちは「この人はきっとこういう人だろう」「この状況ならこう考えて行動するはずだ」と、無意識のうちに自分の「〜だろう」「〜はずだ」に相手を当てはめ、その人の言動を観察する。

 脚本家・生方美久が放送前に「共感や感動を目指した物語ではないので、人間観察の感覚でお楽しみください」とコメントを寄せていたように。この作品は自分の価値観を通して人を理解したつもりになる私たちを、何度も立ち止まらせるためのドラマなのだろう。

 私たちは、どうしたって他者のことを、自分と同じ意味では「わかる」ことができない。なぜなら、その経験を積み重ねてきた本人は、この世界でたったひとりしかいないからだ。だが、「共感」はできなくても、「理解」はできる。わからなさを残したまま、その人がそうするに至った事情を想像し、寄り添うことはできる。

 だからこそ、人は自分と似た痛みや苦悩を少しでも見つけると、「わかってくれる人」「わかってあげられるかもしれない人」と期待し、近づかずにはいられないのではないか。同時に、その相手から「わからない」と切り捨てられることを恐れるようになる。「同じ」にはなりきれなくても、相手にとって誰よりも近い人でありたい。そうした願いから、「相手に必要とされる自分」というフィルターを、少しだけ自分自身にもかけたくなる。

 充自身もまた、咲子に見せる自分を選んでいた。そう考えると、失踪する前の充と帰ってきたあとの充の印象が大きく変わったことにも、少し納得がいく。ドラマの前半で私たちに届けられていたのは、咲子の「好きな人フィルター」と、充自身の「頑張っている自分」が重なった姿だったのではないだろうか。

どこまでが「素」で、どこからが「無理」なのか

 落ち着きがあって、よく気が利いて、家事もテキパキとこなす綺麗好きな充は、多くの視聴者から見ても「今どきの頼れる夫像」だったことだろう。でも、帰ってきた充は、そのときの自分を「いつもは頑張ってただけ」と話した。咲子によく見られたくて、少しだけ背伸びをしていた姿。だが、その頑張りが必ずしも苦しさだったわけではない。

 大切な人に好かれようとして、少し気合を入れて毎日を過ごす感覚に覚えがある人も少なくないだろう。好きな人にいいところを見せたくて頑張ることも、ときには生きがいとなる。では、どこまでが自分自身で、どこからが無理をしている自分なのか。その境目は、本人にさえ簡単には説明がつかないものだ。相手があってこその自分。では、自分らしさとはどこにあるのだろうと考えさせられる。

 充が、篤彦のもとに泊まるという展開には、咲子だけでなく視聴者も驚かされたのではないか。あずさと出会ったときにも、これに近い違和感を抱いた。こんなにグイグイとくる人に、充は心を開くタイプなのか、と。だが、あずさや篤彦との距離の縮め方を見ていると、充のもう一つの性質が見えてきたようにも思う。

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