『スーパーガール』が突きつけた新生DCスタジオの光と陰 テーマ的な強度と創造性の弱さ

『スーパーガール』テーマの強度と弱い創造性

 家族を無惨に殺された少女にですら協力を渋る彼女を動かしたのは、毒矢を受けた最愛の相棒、スーパードッグのクリプトを救いたいというパーソナルな感情からであった。この個人的な思いから始まる少女ルーシー(イヴ・リドリー)と共に向かう追跡の旅は、いつしか“理不尽に捕えられた女性たちの救出”という、パブリックな戦いと合流することになる。

 このように自分自身の問題を解決しようと戦う過程において、ルーシーや女性たちなど他者が受ける抑圧を目撃するカーラ。彼女のなかで、クリプトン人としての辛い記憶と、目の前の弱者たちの痛みが怒りとして結びついていく。なかなか積極性を見せない主人公であるだけに、その回路が繋がってからのアクションシーンの数々には、“アツい”ものがある。

 こうしたカーラの変化というのは、かつて社会運動に興味がなく背を向けていた一人の女性が、個人的な理由をきっかけに社会問題と対峙することで、公共的な活動へとシフトしていくプロセスそのものだ。力のある者が社会に対して責任を果たすことと、個人としての内面的な確立が美しく合致するこの瞬間こそが、本作が到達した最大の美点であるといえよう。

 だが一方で、その立派なテーマを乗せるだけの器が、この映画にあるのかは、疑問に感じられる部分もある。見るからに多くがスタジオ撮影の連続で構成されていると考えられる本作は、明らかにスケール感も、世界観の奥行きも弱い。さまざまな宇宙の種族が登場しながらも、それらの内面や文化、生活様式の描写が希薄で、設定が練られていないのだ。壮大な世界を登場人物たちが冒険するのでなく、登場人物たちを見せるための“書き割り”として、最低限それらしい世界が描かれているに過ぎないと感じられる。

 ジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグ監督の作品では、こうした弱みを感じることが少ない。これは、どれだけSFやファンタジーのジャンルにおける“ワールドビルディング”(世界の構築)に、製作側の興味が向いているかという点が反映されているのである。そしてこの弱点は、ジェームズ・ガン監督のMCU『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズにも共通していた部分だといえる。

 本作『スーパーガール』は、西部劇の構造も借りながら、一人の傷ついた女性が私的な境界線を越えて、社会的な連帯をする主体へと目覚めていくプロセスを描くという、テーマ的な強度を十分に持っている。しかしその一方で、せっかくSF超大作として潤沢な資金を得ながら、創造性の部分の弱さが目立っているのも確かなのである。これなら、ガン監督の『スーパーマン』のように、生きた社会問題をそのまま利用できるよう、地球上を舞台にした脚本にした方が良かったのではないだろうか。

 とはいえ、いかにもな男性目線の魅力から外れ、ときに吐瀉物を撒き散らしながらセックスアピールを拒否し、超パワーで敵を薙ぎ倒していく姿は、一見の価値があることは間違いない。一人の女性の剥き出しの感情と、ヒーローが体現するべき公共的な活動をつなげたカタルシスは、作品に強い芯を与えている。その点は、『スーパーマン』に共通するものがあるといえるだろう。今後のシリーズによって明らかになっていくだろうが、DCの新たなジェームズ・ガン体制とは、このようにヒーロー作品としてテーマの筋道を通していくという部分が、際立った特徴になるのかもしれない。

■公開情報
『スーパーガール』
全国公開中
出演:ミリー・オールコック、イヴ・リドリー、ジェイソン・モモアほか
監督:クレイグ・ギレスピー
製作:ジェームズ・ガン、ピーター・サフラン
配給:東和ピクチャーズ・東宝
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公式X(旧Twitter):@dc_jp
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