2025年を振り返るアニメ評論家座談会【後編】 映画館が担う“推し活”と没入体験の最前線

映画館における没入感について

渡邉:その意味では、今年は「イマーシブ」も大きなキーワードだったと思っています。「チームラボ」的なイベントが筆頭だと思いますが、VRなどを用いて観客を没入させていく。『君の名は。』と『シン・ゴジラ』にも演出や表現に共通点がありましたが、『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』(以下、『無限城編』)と『国宝』もイマーシブ的な手法が非常に似ているように思いました。画面構成が、とにかく没入させて巻き込んでいくようになっている。『国宝』の李相日監督も『フラガール』や『悪人』が有名ですが、人物をアップで映す構図が多い作家なんですね。『スカーレット』もそういう没入のしかたを目指していたように思います。その意味で今年の作品は共通する手法があった気がしますね。
杉本:これは作家のスタイルや好みというよりは、市場の要請が大きいのでしょうね。配信に対抗するうえでスクリーンに求められるのが没入感だと思います。 『無限城編』のワイドショットは非常にキマっていて没入感が凄かったですね。大変にシネマティックなワイドショットが多くて素晴らしかった。『スカーレット』は細田監督のいつものレイアウトとはちょっと違う作品でしたね。渡邉さんの用語を用いれば「ワールドビルディング」的な、世界観を重視する作品の台頭という流れに繋がるような気がします。
『鬼滅の刃』と『国宝』の対照的なヒットを解説 共通項は“日本的意匠”と細部へのこだわり
今年の夏の2大ヒット作となっている『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』(以下、『鬼滅の刃』)と『国宝』。かたや国民…藤津:『無限城編』は、IMAXと相性がいいんですよね。『スカーレット』に関しては、細田監督が文体を変えてきたように僕は思います。題材が変わりましたし、空間を作るために、引きのカットが増えて背景美術を見せるようになりましたね。ここまでスタイルを変えられるのか、という驚きもあって非常によかった。キャラも極端に左右に振ることなく、センターに配置されることが多かった。それが結果的に今の劇場に求められることと合致していたように思います。IMAXで観ると、背景のディティール感が面白いのではないでしょうか。『竜とそばかすの姫』がこれまでやってきたことの集大成を、『サマーウォーズ』をアップデートしつつももう一度やっているように感じたんですね。それと比べて新しいスタイルを自分で作ろうとしていて、かつそれが一貫している。
杉本:ルックの面白さは僕も感じましたね。いつもと違うレイアウトなので初めは戸惑ったりしたのですが、群衆の描写や馬上での戦闘のアクションは今までの日本アニメではできないことでした。新しいルックの開発をCGでやっていくというのは国際的な流れの1つのトレンドに沿ってるので良いなと思いつつ、日本国内で売れているタイプのルックではないんですね。

藤津:その点については、山下高明さんのキャラデザインが割と見やすいところに折衷したように思います。興行的に問題だったのは、なんのストーリーか明かさなかった点だと思うんですね。予告の時点で、もう少しスカーレットをみんなが好きだなと思う状態で劇場に行けるように誘導してあげた方がよかった気がしています。
杉本:そうですね。僕はスカーレットのキャラがぶれてしまっているなと感じました。荒野をさまよってるとこから始まってなんとなくハングリー精神を感じさせるんだけれど、意外とスカーレットのキャラ自体はそうでもない。 主人公が主人公になり切れていないような気がしたんですね。その意味ではむしろ聖の姿勢が面白いなと感じました。壮大な矛盾があるというか。死者の国で命を救う、その原動力はなんだろうと掘り下げると面白いのでは。

藤津:僕は、スカーレットは芦田愛菜が声を当てていることで少女っぽさが出ていた感じがしました。逆に聖(岡田将生)はよくわからなかった。『スカーレット』はスカーレットが生まれ直す話で、その産婆役として聖がいるように見えるんですね。なので最後の「生きたいです」というスカーレットの言葉には、産声をあげるような意味もあったと思うんですね。そのための産婆という意味で聖の役割はわかるけれど、彼の内面はちょっとわからない。
杉本:舞台装置としての立場はわかるが、キャラクターの魅力が伝わってこないというのが最大の問題であるのは分かります。背景美術のお話がありましたが、『スカーレット』の背景は宗教画っぽいんですよね。背景それ自体はワイドショットが多くて良かったけれど、そうであれば脚本もそれに準じたものになっていないとちぐはぐになってしまうんですよね。そこはやはり上手く処理できていない感じがしました。

渡邉:僕もだいたい同じような感想を持ちました。とにかく、「復讐」の物語なのに、スカーレットをはじめとしたキャラクターの内面描写が希薄で、心情の推移などもよくわからず、なかなか感情移入して見られませんでした。テーマ的には非常にチャレンジングだっただけにもったいなかったというか、カタルシスがないまま苦しいヒロインの表情や姿を見続けるのは観客としては単純にストレスフルでしたね。ただ一方で、先ほど指摘したPOVカットを含めてイマーシブなカメラワークは面白かったし、新しい表現の可能性を感じさせる要素はありました。かなり酷評されているサンバのダンスシーンも僕はよかったですけどね。
藤津:一方で、最後に生まれ変わったスカーレットが死者の国で髪を切ったにもかかわらず戻っても髪が切れてるというところがポイントだと思うんです。これは変化を表象してるわけだけれど、国民を幸せにするというのはスカーレットが王だから言えることではあるけど、現代の私たちの問題に対する答えにはならない。しかも、スカーレットが誓ったからと言って、現在の世界の問題が改善されるわけでもない感じがして、「16世紀 デンマーク」で始まったことの、その溝が埋まらなかった。映画の到達点からすると『ハムレット』という要素は、そこまで大事に見えなかった。でもそれを入れたことで、スカーレットと我々の問題がどうしても距離があるように見えるんですよね。

杉本:僕もその通りだと思います。 なぜハムレット要素が必要とされたのかがいまいちわからなくなってくるし、現代社会を見て作っているという割に乖離を感じてしまうんですよね。こうした乖離に関係してくると思うのですが、『スカーレット』に限らず、実写含めて日本ではプリプロを軽視しすぎなのではないかと思う時があります。企画のデベロップメントにお金と時間を費やせる体制づくりが必要ですよね。それがないから、原作付きのものに頼らざるを得ないという状態が発生している部分が少なからずあります。あのCGの物量だと、早い段階で脚本をフィックスしないと間に合わないような気がするし。なのでハリウッドのように脚本もある程度分業などにして、しっかりとプリプロ段階で固めていくいく仕組みを確立する必要がある。そうしないと細田監督のような才能を生かしきれない。
藤津:その意味では、細田監督は日本のアニメの作り方として1人の作家がすべてやるのがいいという価値観を引き受けているような感じがしますね。これは日本のアニメ制作全体が宮崎駿の脚本も映像の監督もできるというようなイメージによる伝説に縛られているという側面があると思います。もう1つは、制度上、監督が著作権者ではなく通常は印税を主張できないという部分の問題もあるのかなと思います。

























