『平場の月』が描く50代の恋愛のリアリティ 堺雅人と井川遥が体現する人間の愛おしさ

『平場の月』が描く50代の恋愛のリアリティ

 山本周五郎賞を受賞した朝倉かすみの恋愛小説が、『いま、会いにゆきます』(2004年)、『花束みたいな恋をした』(2021年)の土井裕泰監督、堺雅人、井川遥主演で映画化された一作『平場の月』。中学生の同級生だった2人の男女が、50歳になって再会したことから始まる恋愛映画だ。

 『花束みたいな恋をした』が、ある種の若者のリアルな恋愛を描くことを追求していたように、本作『平場の月』もまた一つの恋愛について、特徴的なまでのリアリティをもって描いている。その最も印象的な試みは、近年多くの恋愛作品で描かれてきたピュアな恋愛を、双方が50歳同士という条件下に当てはめてみる点なのではないか。

 離婚や子どもとの関係、親の介護問題や死別、自身の老化や健康上の不安、そして経済的な問題などなど、50歳には10代や20代の若者には想像もできない、人生の過酷な局面に立ち向かい、責任が重くのしかかっている。そこに中学時代の憧れの存在という、ロマンティックな青春の息吹が流れ込んでくる。本作は、大人の恋愛そのものを描いたというより、大人の立場と肉体に、果たして若い頃のきらめきがどれほど通用するのかという一種の試練を設け、あるいは思考実験をしているようにも感じられる。

 堺雅人が演じる主人公・青砥健将(あおと・けんしょう)は、妻と別れて息子とも離れ、母親が入院する病院のある地元で印刷会社に再就職し、ひとり暮らしをしている。そこで偶然出会ったのが井川遥が演じる、中学生時代に思いを寄せていた元同級生の須藤葉子(すどう・ようこ)。彼女もまた離婚を経験し、地元に戻ってきていた。ふたりは居酒屋で同じ時を過ごし、葉子のアパートの部屋で一緒に飲む関係にまで、すぐに発展する。

 しかし、そこから恋愛関係になるまでが難しい。ふたりきりで部屋で過ごしながら、青砥と須藤は元同級生によるふたりだけの「互助会」なる間柄を維持したままなのだ。お互いに、誰はばかることなくアプローチできる状況のはずなのに、そこからおいそれと進めないというのが、50歳という年齢の強い“重力”だというのが、本作の恋愛観だ。面白いのは、その慎重さや遠慮が、あたかも中学生の恋愛に回帰しているようにも感じられるところである。

 その反面で、ついに一線を越える描写は、やけに生々しい。青砥が後ろから接近して抱き寄せようとするシーンは、10代の恋愛映画では見られない湿度がまとわりついている。そう思えば、このふたりの距離の詰め方というのも、それがいちいち決定的なものではなく、「時間を確認するためにケータイを見てゾロ目だったら嬉しい」という、あまりにもたあいのない話題で外堀りを埋めていくという流れが、妙にリアルだったと感じられる。

 健康診断の結果から精密検査を受けたり、親の施設入所や葬儀、手術などなど、差し挟まれるエピソードの数々は、10代のキラキラ恋愛映画と比較すると、当然ながら気が滅入るものが多い。難病を扱った若者の恋愛映画は数多いが、この年代になってくると、そういった状況は悲劇ではあれど、人生の後半戦を生きる上で、さして珍しい事態ともいえなくなってくる。

 手術を経て須藤が人工肛門を使用するようになる描写に至っては、恋愛映画では描かれない、まさにこれまでの基準でいえばキラキラとは対極的な要素であるだろう。とはいえ、こういった現実的な要素を前に出すことで、恋愛というものが、きらめく若者の時代や、特定の人々だけの特権ではないという事実を浮かび上がらせ、より広い領域を肯定してくれるのである。

 埼玉県朝霞市を中心としたロケーションや、地理的な利便性から池袋で特別な買い物をする青砥の姿もまた、やや周縁部に生きるリアルさを醸し出す。その世界は、劇中で語られる、中学生の時代に最も注目されていた女子が、外資系の夫と銀座の高層マンションで暮らしているという、もはや異世界とすらいえる目線とは大きな距離をとっている。

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