宮沢氷魚×福原遥の幸せな恋をもっと観たかった 『べらぼう』に刻み込まれた悲恋

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第28回「佐野世直大明神」で、田沼意知(宮沢氷魚)と誰袖(福原遥)の恋物語が静かに幕を下ろした。江戸城内で佐野政言(矢本悠馬)に斬られた意知の葬列で、棺を庇って駆け出す誰袖の姿は、まさに“恋に生きた花魁”の壮絶な慟哭だった。身分を超えた恋の結末としては、あまりにも残酷で、あまりにも美しい最期だったと言える。
意知と誰袖という二人は、多くを語らずとも深く通じ合う関係として描かれた。宮沢が体現した意知の凛とした佇まいと、福原が演じた誰袖の一途な恋心は、言葉を超えた“まなざし”によって紡がれており、特に第25回「灰の雨降る日本橋」で意知が扇に書いた狂歌を誰袖に渡すシーンは、二人の関係性を象徴する名場面となった。宮沢は「あのときの誰袖の表情が、それまでに見たことのない、多分嬉しさと、ちょっと照れているような表情になっていて。お互いに目を合わせられず、若いふたりのキュンキュンするような恋愛シーンでした」と振り返る(※1)。瑞々しい恋の瞬間が、そこには確かに存在していた。

森下佳子の脚本は、この二人の関係に独特の深みを与えた。宮沢は誰袖との関係について「身請けがなかなか進められない、誰袖を危険な立場に置いていることへの意知の懺悔というか、今の自分の弱さや未熟さも打ち明けているんですよね。それは意次(渡辺謙)にも三浦(原田泰造)にも蔦重(横浜流星)にも相談できないことで、そういう姿を誰袖には自然と見せられていた」と語る(※1)。この言葉が示すように、誰袖は意知にとって唯一素顔を見せられる相手だったのだ。
一方の誰袖も、「わっちを身請けしておくんなし」という口癖に象徴されるように、自らの運命を切り開こうとする強かさを持ちながら、意知の前では素直な恋する女性の顔を見せた。福原が「一見、無邪気で可愛らしいようで、実は強烈なキャラクター」(※3)と評する誰袖の多面性と、為政者としての使命と一人の男としての感情の間で揺れ動く意知。この複雑な人物造形が、二人の恋をより切実なものにしていた。

そして第28回で迎えた意知の最期のシーンでの宮沢の演技は、まさに鬼気迫るものだった。意知が朦朧とする意識の中で「身請けした女郎がおります。世話になった者で……面倒を何とぞ」と絞り出す。そして最期に手を意次の胸に寄せる仕草、そこには言葉にならない無念と、父・意次への信頼が込められていた。

一方で意知の死後、一転してつらい立場に追い落とされた誰袖は一時、自らの命を絶とうとさえするが、そんな誰袖が選んだ道は呪詛だった。蔦重が誰袖のもとを訪ねると、部屋に結界を張り巡らして、呪文を唱えている誰袖がいた。息を切らしながら「敵を討ち、おそばに行くのでありんす。2人で悲願の桜を楽しみんす」と呪詛を続けた誰袖の姿は、それまでのかわいらしい花魁像を完全に覆してしまう。この豹変ぶりこそが、福原遥という俳優の真骨頂だ。無邪気でかわいらしいだけではなく、内に秘めた強烈な強さ。現在放送中のドラマ『明日はもっと、いい日になる』(フジテレビ系)では、“甘さ”を消した大人の女性を演じており、その引き出しの多さに驚かされる。

宮沢氷魚と福原遥、この二人の共演が咲かせた“桜”は、『べらぼう』という作品に忘れがたい恋の記憶を刻み込んだ。意知と誰袖の物語は第28回で終わりを告げたが、宮沢が「もう少しふたりで幸せな時間を過ごしたかったなぁ」(※1)と惜しむように、その余韻は視聴者の心に深く残り続けるだろう。二人が交わした扇は、きっとこれからも物語の中で生き続ける。
参照
※1. https://www.steranet.jp/articles/86731
※2. https://realsound.jp/movie/2025/06/post-2071642.html
※3. https://artexhibition.jp/topics/news/20250503-AEJ2641710/
■放送情報
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』
NHK総合にて、毎週日曜20:00~放送/翌週土曜13:05~再放送
NHK BSにて、毎週日曜18:00~放送
NHK BSP4Kにて、毎週日曜12:15~放送/毎週日曜18:00~再放送
出演:横浜流星、小芝風花、渡辺謙、染谷将太、宮沢氷魚、片岡愛之助
語り:綾瀬はるか
脚本:森下佳子
音楽:ジョン・グラム
制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典
演出:大原拓、深川貴志
写真提供=NHK





















