渡辺謙の覚悟の眼差しに目頭が熱くなる 『べらぼう』意次と蔦重の“敵討ち”の成功を願って

『べらぼう』“敵討ち”の成功を願って

 実に苦しい回だった。 東北地方を中心に90万人以上もの餓死者を出し、日本の近世では最大の飢饉と言われている「天明の大飢饉」。米はもちろん食用となる草木はすべて食べ尽くされ、ついには死人の肉までもが口にされたと、杉田玄白の『後見草』にその惨状が記されている。まさに、この世の地獄だ。

 追い詰められた人々は「こんなにも苦しいのはアイツらのせいだ」と、誰かを悪者にして怒りの矛先を向けずにはいられなくなる。同時に「アイツらこそが敵だ」という声に共鳴し、その声を上げた者を崇めるように心酔していく。

 それは時代も国境も超えて、世界中で繰り返されてきたことだ。奇しくも、「どうしたらより良い世の中になるのか」と議論が飛び交った参院選後のタイミングで、この回がオンエアされたのも考えさせられるものがあった。

 NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第28話のサブタイトルは「佐野世直大明神」。田沼意知(宮沢氷魚)を斬った佐野政言(矢本悠馬)のことである。この刃傷事件に至るまでの動きを見つめてきた視聴者からしたら、政言を突き動かしたのはもっと個人的な思いだったと感じたはず。しかし、江戸の世を生きる民衆にそんな背景のすべてが伝わることはない。

 斬りつけられた意知は治療の甲斐なく、数日後に絶命。その葬列には「天罰だ」「思い知れ」「お前のせいだろ」と罵倒とともに石が投げられた。一方、切腹した政言の墓には「佐野世直大明神」ののぼりが立て掛けられる。その異様な光景に「ついていけねぇっす」と首をかしげる蔦重(横浜流星)と、多くの視聴者は同じ思いだったのではないだろうか。

 意次(渡辺謙)も意知も、非の打ち所がない聖人君子と言えるわけではない。実際かなりグレーな動きを見せていたこともあった上に、結果としてうまくいかなかった施策も多々あった。だが、この国の経済を活性化させ、人々の生活をより良くしたいという願いには一点の曇りもなかった。

 これまでも保守的な松平武元(石坂浩二)とやり合ったり、幕府の財政悪化に業を煮やす紀州藩主・徳川治貞(高橋英樹)からの重圧に耐えたりと、気苦労が絶えなかったことも私たちは知っている。上昇していく米の価格もどうにか抑えようと奔走していたことも。それを知らずになんということを……と、民衆たちの言動について嘆くのは簡単だ。

 そんな攻撃的になった群集の心理を憂うだけで終わらないのが、このドラマの持つ“思慮深さ”。「蔦重は、なんだかんだで明日飢えて死ぬって目に遭っちゃいないだろ? 私は拝んで米の値が下がるなら、いくらでも佐野って人を拝むよ」とは、新之助(井之脇海)と足抜けをしたうつせみ花魁こと、ふく(小野花梨)の言葉だ。

 吉原を飛び出して農村で細々と暮らしていた2人も、飢饉の影響を受けて命からがら蔦重のもとへとやって来たのだ。これまでも江戸の町にも飢えに苦しむ人々が溢れかえっていたのは見てきたが、その流民の中に新之助とふくもいたと思うと、胸に迫るものがある。

 「数万人」「数十万人」という数字になると、つい見えなくなってしまう1人ひとりの名前と顔。そして、その人たちにも新之助やふく、そして意知と同じように懸命に生きてきた人生がある。やむにやまれぬ事情があって今その立場にいるのだ。道に座り込んでいる人も、石を投げつけた人も、誰もが同じように愛する人がいて、自分の手で成し遂げたい夢があった。そう思うと、改めて心が押しつぶされそうになる。

 混乱する世の中で、本当の「敵」は誰なのか――。意知の「敵を討って」と誰袖(福原遥)から頼まれた蔦重とともに考え込まずにはいられなかった。直接的に命を奪った政言は、すでに死んでいる。ならば、葬列に向かって真っ先に石を投げ、佐野の墓に「大明神」ののぼりを掲げた男だろうか。はたまた、その奥にいると思われる一橋治済(生田斗真)だろうか……。

 しかし、どうしたって意知が還ってくることはないのだ。その事実が、命の奪い合いで終わる恨みなどないのだと痛感させられる。ならば、真に無念を晴らす「敵討ち」とは何か。それは、故人が生きていたらやり遂げたであろうことを受け継ぎ、見事に成し遂げて、その名を後世に残すこと。そう覚悟を決めた意次の気迫に満ちた眼差しに目頭が熱くなった。

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