『べらぼう』なぜ田沼意知は斬られたのか? 江戸城の刃傷事件が現代に問いかける“正義”

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第27回「願わくば花の下にて春死なん」では、田沼意知(宮沢氷魚)が佐野政言(矢本悠馬)によって斬りつけられるという衝撃のラストとなった。
ここまで意知はひときわ鮮烈な存在感を放ってきた。父・田沼意次(渡辺謙)の片腕として抜群の政治的才覚を発揮し、陰謀と私怨が渦巻く江戸城内で刃に倒れた若きエリート官僚。意知を取り巻くドラマオリジナルの筋立てと、実際の歴史とのギャップは、むしろその本質を浮き彫りにしているように思える。
また、意知殺害事件は現代のわたしたちにも「正義とは何か」という問いを投げかけている。ドラマと史実の違いをたどりながら、その核心に迫ってみたい。
吉原の花魁・誰袖と田沼意知の関係

劇中での意知は、吉原の花魁・誰袖(福原遥)と密やかな取引を交わす。蝦夷地における松前藩の抜け荷(密貿易)摘発をめぐる、危うい駆け引き。誰袖は密貿易の証拠をつかむ代わりに、自らの身請けを意知に託す。意知はその願いを静かに受け入れる——という展開は、物語として非常に切なくスリリングだ。
しかし、これは史実とは異なる。誰袖と意知の間に取引の記録はなく、これはドラマオリジナルの創作だ。実際に誰袖を身請けしたのは、田沼意知ではない。ドラマの中で意知の代わりに身請けしたと描かれる勘定組頭の土山宗次郎(栁俊太郎)その人である。
ドラマでも、意知が現れるまで誰袖の贔屓客は宗次郎だったが、当時の誰袖は蔦重(横浜流星)に身請けを迫っていた。
蔦重が妻・てい(橋本愛)に「出会ってしまった」と告げたように、誰袖と意知も「出会ってしまった2人」だった。意知は「花雲助」と名乗り、誰袖に「雲助袖の下にて死にたし」と愛を告げる。2人で花(桜)の下、月見をする約束の日、悲劇は訪れる。
『べらぼう』で描かれた「蝦夷地問題の前夜」

『べらぼう』の中で、意知は松前藩の抜け荷(密貿易)摘発や蝦夷地の幕府直轄化を主導するが、史実にその記録はない。
とはいえ、『べらぼう』がすべて創作というわけではない。1783(天明3)年、仙台藩医・工藤平助の『赤蝦夷風説考』が幕府に提出され、蝦夷地への関心が高まりつつあった。父・意次が平秩東作(木村了)を蝦夷に派遣したのは意知殺害の前年、探検家・最上徳内はその翌年である。直轄化への動きは、すでに水面下で始まっていたのだろう。
やがて意次の失脚で蝦夷開発は頓挫し、11代将軍家斉の時代、松平定信(寺田心/井上祐貴)が直轄化政策を進める。実際に蝦夷地が幕府直轄となるのは15年後の1799(寛政11)年。定信は失脚し、意知も意次もこの世にいなかった。
刃傷事件の衝撃と見えない黒幕

意知の死は、田沼政権の命運を大きく揺るがせた。1784(天明4)年3月24日、江戸城中で旗本・佐野政言によって斬りつけられた意知は、2日後に息を引き取る(公式の記録では4月2日)。享年36歳。史実として残るこの事件は、今なお多くの謎に包まれている。
政言が意知を殺害した理由は、いまだ霧の中だ。表向きは「乱心」とされたが、意知だけを執拗に追い詰めた行動は、単なる心神喪失では説明がつかない。意知による賄賂の黙殺や家系図の返却拒否、鷹狩りの手柄隠しによる怨恨説も伝わる。
田沼家の悪政への17カ条の口上書も発見されているが、偽文書ともいわれ、真偽は定かでない。そもそも、二人に面識があったかどうかさえ、記録は曖昧だ。
『べらぼう』ではこれらのエピソードを巧みに盛り込んだ。家系図は意次が池に投げ入れたため返せなくなり、意知は政言の昇進を父にたびたび願い出ていた。鷹狩りの件は、「丈右衛門だった男」(矢野聖人)による虚言である。
丈右衛門だった男が平賀源内(安田顕)に罪をなすりつけた過去や、源内が家基の事件の不審な点を突いた原稿が燃えるのを見ながら芋を一橋治済(生田斗真)が食べていたことから、事件の背後に治済の影がちらつく。しかし、これはあくまでドラマのフィクションである。




















