『ドールハウス』矢口史靖の“意外な作家性” 初期作にみられる怪奇性が大復活

『ドールハウス』矢口史靖の“意外な作家性”

 人は喪った者への悲しみに明け暮れているわけにもいかず、どこかのタイミングで日常に戻らなくてはならない。ところが“忘れる”と“克服する”は別もの。愛情の対象物を変えることで、自然と過去や思い出に蓋をして、前に進むことも大切なのだが、忘れてしまうことは、存在を否定してしまうことにもなる。そんなバランスを、人形“アヤ”を通して描いていることもあって、そこにどうしても亡くなった娘の残像を重ねてしまうのだが、その固定観念を利用した視点操作にも複数のギミックが隠されている。

 怖さだけではなく悲しさが入ることで、感情移入のバランスが乱れてしまうのも今作の特徴。さらにリアルとエンタメ化された恐怖の違い、つまり否定と肯定が入り乱れ、“これは本物”感を演出しているというのに、画的には“ど直球”なジャンル映画なのだから、余計に視聴者の感覚を麻痺させる。

 例えば髪の伸びる人形について。日本人形というのは、かつて人毛を使用していたものもあったため、自然に成長することがある。そういったオカルトと思われがちだが、実は現実的に在り得るし、霊体験は基本的に勘違いや精神疾患、PTSDなどによる幻覚が主な原因とされている。心霊写真も機材や光が原因だったこともあり、かつてあった心霊写真特集もカメラ技術の発展によってほとんど無くなった。そういった科学的に証明できるものと、できないのものの否定と肯定を巧みに取り入れ、全編を通して“これは本物”感が散りばめられている。

 田中哲司が演じる呪禁師が絶妙に胡散臭いのだが、言っていることに信憑性をもたせてくるのも否定と肯定による効果。それらを踏まえても、情報があふれた現代で、なかなか有効な演出のひとつといえる。

 『禁じられた遊び』(2023年)のなかでも「この世に、幽霊など存在しない!」と言う一方で、「全て〇〇による仕業だ」といったセリフがあったように、そこにリアリティを演出する。そもそも映画自体がフィクションなのだから、その視点自体もおかしいのだが、作り手側のフィールドに観客を引き込むことで、あるはずのないリアリティが発生するというのは不思議なものだ。

 世界は現実と空想のバランスで成り立っている。それがあるタイミングでバランスが崩れ、空想側に傾いたときに、さらにリアリティがあるような空想を重ねると、視点が迷子になってしまう。今作でいえば、大切な人との肉体的な別れと、精神的な別れだ。精神的な別れは「あの人だったらこう思うだろうな~」という個人の空想、極端に言えば都合の良い解釈によるもの。とはいえ、折り合いの付け方も人それぞれだが、そこには、つけ入る余地が出てきてしまう。今作『ドールハウス』からは、そんなデリケートな部分をゾワゾワと刺激することで、人間の精神構造とミステリーの境界線を、ジャンル映画に見せかけて解体しようとする、ある種の哲学を感じた。

■公開情報
『ドールハウス』
全国公開中
出演:長澤まさみ、瀬戸康史、田中哲司、池村碧彩、本田都々花、今野浩喜、西田尚美、品川徹、安田顕、風吹ジュン
原案・脚本・監督:矢口史靖
主題歌:ずっと真夜中でいいのに。「形」(ユニバーサル ミュージック)
配給:東宝
©2025 TOHO CO.,LTD.
公式サイト:https://dollhouse-movie.toho.co.jp/
公式X(旧Twitter):https://x.com/dollhouse_movie
公式Instagram:https://www.instagram.com/dollhouse_movie

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