中国古典文学の名著が映画に 『紅楼夢 ~運命に引き裂かれた愛~』が引き出した新たな魅力

『紅楼夢』映画ならではの魅力を解説

 しかし、それでも本作には印象的な女性キャラクターが登場する。その一人が王熙鳳(おう・きほう)だ。彼女は栄国府の経済や人間関係を仕切る実力者で、権力と美貌を兼ね備え、ときに冷徹にものごとを判断する人物。そして、そんな王熙鳳を感心させた存在が、遠い縁戚だという理由で田舎から生活の援助を求めて彼女の前に現れた劉(りゅう)婆さんだ。劉婆さんは、貧しいながら機知とユーモアに富む人物で、持ち前の才能を発揮して王熙鳳から援助を引き出すことに成功する。

 繊細な感性を持つ林黛玉。慎ましい性格で多くの人に慕われる薛宝釵。彼女たちは重要なキャラクターではあるが、まだ年若い文学少女だ。そこに、実質的な家長の賈母、王熙鳳、劉婆さんという、さまざまな個性や能力を持った人物たちが登場することで、封建的な中国・清朝の時代にあっても、各階層で女性の役割や性質に多様性や魅力があったことが理解できるのである。

 そして、この多様な女性たちの存在が、『紅楼夢』に立体的な魅力を与えてもいるのだ。本作を手がけたフー・メイ監督も、女性として多くの歴史大作をつくりあげてきた才人だ。彼女がそれらキャラクターを忘れずに登場させたということには、大きな意味があるといえよう。

 さらに注目したいのは、VFXを駆使した大スケールの風景と、地理的要素である。本作の物語は、林黛玉が中国南部、江南地方から栄国府にやって来ることで動き始める。「南船北馬」と言うように、中国の南部は水が豊富で、河や水路を船で移動する機会が少なくない。筆者は過去に中国の江南地方のさまざまな都市を巡る旅をしたことがあるが、過去の面影を残す景観や歴史的建造物、庭園の美しさは、息を呑むほどだった。

 政治の中心地である順天府が、権威や権力が集中し、官僚的な価値観が支配する“男性的”な場所であるとすれば、江南は文化、芸術が栄えた、当時の意識としては“女性的”な場所だといえるだろう。賈宝玉は、幼い頃に「女は水でできていて、男は泥でできている。女を見るとせいせいし、男を見るとむかむかする」と発言していたと原作にある。

 それは単に男女の身体のイメージにとどまらず、立身出世など功利主義的な考えにばかりとらわれている当時の男性の世界と、豊かな感性が求められた女性的な世界の対比であり、ひいては中国の地理的なスケールとしても理解できるのである。

 本作で描かれる庭園「大観園」の澄んだ池や花々の美しさは、政治の中枢に近い場所でありながら、むしろ宝玉や黛玉が愛する、江南の女性的な美しさを象徴しているといえる。本作で際立って美しい、賈母を中心とした少女たちの「詩会」における、提灯の光に照らされた幻想的な光景もその代表といえよう。さらには、雨のシーンが多く、天候の面で“水”を感じさせるのも、『紅楼夢』が女性の感性を表現する作品であることを裏付ける。

 このような奥行きや、感性主体の造りであることこそが、『紅楼夢』が長く人々に愛され、研究される理由だといえる。そしてさらに読む者を迷宮に誘うのは、「太虚幻境」という天上の世界の存在である。本作では、夢のなかで宝玉がその世界にアクセスする様子も描かれている。そのファンタジックな世界観は、映画の冒頭で描かれる、さまざまな試練を経験した宝玉が旅のなかで巨大な石と、その側の草を発見するシーンにも繋がっているので、注意しておきたいポイントだ。

 ここで登場する石とは、中国神話の創造女神である「女媧」が、天に空いた穴を繕った際、修復のために作った石の一つだとされている。しかし、この一つの石のみが修復に使われずに余ってしまった。自分を役立たずだと嘆く石が流した涙が、側に咲く草に注がれ、草は石と同じく霊的な力を持つに至るのである。その石と草が地上に落ち、賈宝玉と林黛玉として生まれ変わったという経緯が、本作の冒頭で暗示されていたのである。これは、映画だけでは補完できない背景だ。

 賈宝玉は、前世の名残として「通霊宝玉」という特殊な玉を口に含んで生まれてきた。だから彼の名は「宝玉」とされ、彼のアイデンティティとされてきたのだ。本作のラストでは、賈宝玉と林黛玉が初めて出会ったエピソードが語られる。宝玉が自分の「宝玉」よりも黛玉を大事に思う描写は、まさに石が草に水を与えるように、宝玉の人間性と林黛玉との個人的な心の繋がりを映し出している。

 中国の壮大な国土と景観、没落し始める貴族社会の退廃美、そして神話の世界……。巨大で複雑な迷宮のような『紅楼夢』だが、その最深部にあるのは、大事な人を気遣う細やかな心情という、われわれ観客にも身近な、ごく小さな“優しさ”だったのではないか。それを最も大事なシーンとして描いた本作『紅楼夢 ~運命に引き裂かれた愛~』は、まだ『紅楼夢』の文学世界に触れていない観客にも、その魅力を鮮やかに伝えてくれる一作に仕上がっているといえるだろう。

■公開情報
『紅楼夢(こうろうむ)~運命に引き裂かれた愛~』
5月30日(金)より、TOHOシネマズ 日比谷ほか全国順次公開
出演:辺程(ベン・チェン)、張淼怡(チャン・ミャオイー)、黄佳容(ホアン・ジアルン)、林鵬(リン・ポン)、盧燕(ルー・イェン)、楊童舒(ヤン・トンシュー)
監督:胡玫(フー・メイ)
脚本:何燕江(ホー・イェンジャン)
配給:ムーランプロモーション/亜太メディアジャパン/上海金徳影業有限公司
配給協力:ギグリーボックス
2023年/カラー/116分
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