テレビドラマに“舞台的”作劇は通用するのか? 『人事の人見』冨坂友の脚本術を読み解く

Travis Japanの松田元太が主演を務めるドラマ『人事の人見』(フジテレビ系)が非常に面白い。なんて痛快な作品なのだろうと、放送がはじまってすぐの段階から感じていた。けれどもこの作品に対して、私と同じように好印象を抱いている視聴者ばかりではないらしい。なぜなのだろうか。
本作は、古い体質の残る大企業の“人事部”にフォーカスしたオフィス・エンターテインメント。「日の出鉛筆」の人事部に、あまりにもおバカでピュアすぎる主人公・人見廉(松田)がやってきたところから物語ははじまった。彼は海外企業からヘッドハンティングされてきた超エリートだと噂されていたが、実際には社会人としての自覚も常識も欠けている人物。よく言えば凝り固まった世間一般の常識に囚われないキャラクターで、その真っ直ぐさに好感を持っている人もいるだろう。

人見とともに時間を過ごしているうちに、だんだんと彼のことが好きになってくる。私の場合はそうだ。人見に対して世話を焼き、手を焼きながらも、なんだかんだで突き放すことなく気にかける先輩の真野直己(前田敦子)のように。しかしこのような心持ちになるには、本作に対する姿勢がどんなものであるのかが重要だと思う。大前提となる姿勢が。
たとえば、物語の舞台となる「日の出鉛筆」という企業も、その人事部も、決して現実離れしたものではない。もちろん、フィクショナルなドラマ作品を仕立てるにあたって、それなりに誇張はされているのだろう。しかし、この人事部で過ぎていく日常は、何かしらの作品で繰り返し目にしたことのあるものだ。でありながらなぜ、この物語の展開や登場人物たちの言動に「ついていけない」と感じる視聴者が出てくるのだろうか。

たしかに、主人公の人見は常識はずれにもほどがある。第2話では“残業”をめぐって関係者らを監禁(と記すのは大げさかもしれないが、結果として閉じ込めてしまっていたのは事実)。彼の思い切った行動は、ときに警察沙汰にだってなりかねないものだ。こういったトンデモ展開につまずいてしまう人が少なくないのは想像できる。けれども繰り返すように、これはフィクショナルなドラマ作品だ。主人公の荒唐無稽な振る舞いが、私たちの日常では見られないような光景を生み出してくれるのは非常に頼もしい。「まさか!」と叫ばずにはいられない展開を差し出す作品は、ほかにもたくさんあるではないか。だから、「ついていけない」となる要因は、ほかにあると私は考えている。