アカデミー賞2部門ノミネートの“難解作” 『ニッケル・ボーイズ』の挑戦的な試みを徹底解説

難解作『ニッケル・ボーイズ』を徹底解説

 2人が会話する場面では、この二つの主観が、一つのシークエンスのなかで素早く交互に入れ替わる。これによって、基本的に2人の主観映像で構成するという制約を守りながら、それぞれの主観にスイッチすることで“切り返し”を可能にし、まるでそこだけ、通常の劇映画のように見えるという、ユニークな演出が用意されているのである。お互いの目を正面から見て話すシーンでは、偶然ながら小津安二郎の作品の会話シーンにおける、正面の切り返し演出に似ているところが面白い。

 劇中で最も分かりにくいと考えられるのが、プールでの一場面だ。ここで何が起こっていたのかも解説しておこう。実際の脚本を確認すると、この場所はニッケル校の職員であるハーディーの家のプールであることが分かる。ハーディー夫人とエルウッドを見ている主観映像は、先にプールで遊んでいるターナーのもの。彼らはハーディー家のポーチのペンキ塗りをするという奉仕活動をしたことで、ハーディー夫人のはからいによってプールに入れている。

 ハーディー夫人はなかなかプールに入らないエルウッドに対して、「友達のように泳げないのなら、この端の階段に座ってなさい。ズボンを脱いでね」と指示する。エルウッドが脱ぎ出すと、ハーディー夫人は慌てて立ち上がり、急ぎ足で家の方に入っていく。その後ターナーは水中にもぐったまま、エルウッドがプールに浸した脚に接近し、触れようとする。このシーンが示しているのは、いったい何だったのだろうか。

 ハーディー夫人は、施設に本を寄贈したりプールに入れたりと、エルウッドたちに親切に接しようとすることで、人の良さを発揮しているように見えるが、実際のところ自宅のポーチのペンキ塗りを無償でさせ、彼らを搾取しているのも確か。ドキュメンタリー映画『13th 憲法修正第13条』(2016年)では、アメリカの奴隷制が廃止されて以来、不当逮捕された黒人が刑務所の労働者として搾取されることを「現代の奴隷制」として糾弾したが、ここではまさにそれがおこなわれているのだ。

 エルウッドがズボンを脱いだ途端に夫人が狼狽するのは、エルウッドの体に何本も刻まれた鞭打ちの痕を見たからだと考えられる。子どもがなぜ、そんな残酷な暴力にさらされなければならないのか。自分がそういった暴力的なシステムのなかで快適な生活を享受していることを意識させられたことで、夫人はいたたまれなくなり、その場を去らずにはいられなかったのである。

 しかしターナーは逆に、エルウッドの側に寄って、傷の跡に手を触れようとする。これは、エルウッドの高潔な精神への共感と尊敬が含まれているはずだ。ターナーは以前、エルウッドの祖母が施設に訪ねてきたときに託された手紙を、エルウッドに渡していなかった。それは、彼女のあまりに愛情深い姿を目にして、複雑な心境に陥ってしまったためだと想像できる。ターナーにもそんな存在がいれば、家を遠く離れて、こんな施設に2度も収容されなかったはずなのだ。

 ターナーはエルウッドのように考えることはできなかったし、信念のためにリスクを背負うこともできなかった。しかし、エルウッドの傷に触れ、その苦痛を共有することで、彼は確かに変わりつつあった。そして、施設の不正をうったえようとして殺害される運命にあったエルウッドを、彼は助けようとするのである。この脱出劇でエルウッドが撃たれてしまう描写に、観客は大きな衝撃を受けることとなる。なぜなら、エルウッド・カーティスという人物が大人になった姿が、劇中での複数の「フラッシュ・フォーワード」シーンにおいて現れていたからである。

 じつは、何度か登場する、エルウッドが大人になった後ろ姿はミスリードであり、その正体は“エルウッド”を名乗るターナーだったのだ。彼は、エルウッドの人生を代わりに生きていたのである。ここはまさに、フィクションならではのストーリーだといえよう。

 エルウッドになって人生を生きていくターナーは、その後、持ち前の要領の良さによって、ささやかなビジネスを成功させていく。しかし彼の心残りは、本物のエルウッドがいまだ発見されていないことにあった。もし自分がエルウッドなら、何をするのか? ターナーはエルウッドがマーティン・ルーサー・キングから受け継いだ高潔な意志をさらに引き継いで、施設を告発する決心を固めるのだ。

 ラストカットは、美しい木々の枝と空を見つめる少年時代のターナーの視点だ。エルウッドが現れて手を差し出し、ターナーが握り返して引っ張り上げられる。これは一見、「逆ではないのか?」と思わされる構図だ。実際にはターナーの方が、エルウッドが埋葬された場所を見つけ出す手伝いをしたからである。エルウッドは、ターナーの尽力によって、引き上げられたはずなのだ。

 しかしこれは、ターナーの記憶の一場面だったと考えれば説明がつく。彼が施設にいた頃に、エルウッドが手を出して起こしてくれたことがあったのだろう。そしてこの記憶を思い出すことは、“エルウッドになり変わったターナー”が、“ターナーのアイデンティティ”を甦らせたことを象徴していると考えられる。エルウッドとして生きることを選んだターナーは告発に及び、エルウッドとしての正義を全うしたことによって、埋葬されていたエルウッドの存在を取り戻した。そしてそのことが、本来のターナーの存在も取り戻すことになるのである。

 前述したように、この感動的なストーリーを、もし分かりやすい演出で映画化したなら、より多くの観客に支持されたことだろう。しかしロス監督は、制約のある主観映像にこだわった。彼はこのことについて、「なぜわれわれは、スクリーン上でわれわれの感受性や主観性に近づくことができないのか?」と述べている。アメリカ映画において、黒人は『國民の創生』(1915年)で悪魔化して描かれた時代を経て、そこに共感や同情が見られる時代になっても、あくまで白人の主人公の内面に呼応するような外部的存在としての役割を担わされたり、社会問題の反映として客観的に映し出されてきた。アメリカにおけるアフリカ系俳優の草分けであるシドニー・ポワチエも、その代表であったといえる。(※2)

 だとしてもシドニー・ポワチエは、後進の可能性を大きく切り拓いた偉大なスターである。彼は、白人の期待や願望に沿いながら、白人中心の映画界を生き抜いていった。『手錠のまゝの脱獄』での反抗的な歌唱シーンは、そんな彼の演技が自意識の側に逸脱していく瞬間だったのかもしれない。その音声をラストで使うことで、ロス監督は本作を“黒人中心”の映画であるということを強調しているのではないか。

 本作『ニッケル・ボーイズ』を高く評価するバリー・ジェンキンス監督もまた、『ムーンライト』において主観的な演出をおこない、黒人の肌を美しく見せるライティングによって、これまで“白人の目”を通して描かれてきた映画の世界を覆してみせた。ラメル・ロス監督は、そこからさらに黒人による主観性を高め、物語が理解しづらくなるというリスクや演出上の制約を受け入れながら、黒人が中心となった新たな感覚的世界を、感動的な物語とともに表現するという挑戦に踏み出したのである。

参照
※1. https://en.m.wikipedia.org/wiki/Florida_School_for_Boys
※2. https://www.bbc.com/culture/article/20241212-nickel-boys-a-first-person-view-of-americas-racist-past

■配信情報
『ニッケル・ボーイズ』
Prime Videoにて独占配信中
出演:イーサン・ヘリシー、ブランドン・ウィルソン、アーンジャニュー・エリス
監督:ラメル・ロス
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