北野武が自作や自分自身を“解体” 現代アート的な取り組みとして鑑賞すべき『Broken Rage』

『Broken Rage』にみる北野武映画の本質

 一方で、批判の声が少なくないということは、少なくとも“万人向け”の笑いではないといえるかもしれない。これは、やはりギャグが連続する実験的な過去作『みんな〜やってるか!』(1995年)への反応に近いものだと考えられる。下品なネタも多いので、こちらはさらに万人向けとはいえないのだが、極度にスラップスティックだという点では、本作と共通する点が少なくない。

 『みんな〜やってるか!』では例えば、「宮路社長」こと、実業家の宮路年雄氏が、おそらく本人に近い役として登場し、これ見よがしに大量の現金を抱えて弱々しく歩いているところを強盗に次々に狙われるという場面がある。個人的に笑い転げそうになった場面であったが、まさにこれこそ、各人によって異なる感覚に左右される点だといえ、やはり優劣を語る性質のものではないかもしれない。北野武映画のギャグが激烈に面白いものだと理解するのも、単に“寒い”ネタの連発に過ぎないととらえることも、主観の枠を飛び出して語ることは難しいということだ。

 ただ、例えばバラエティ番組で所ジョージにおもちゃのハンマーでピコッと頭を叩かれるなどの、ややもすると幼稚といえるほどの極度にスラップスティックなギャグは、それが“ビートたけし”であり“北野武”という存在だからこそ、笑えるという部分もあるのは確かだ。それを権威主義だったり、一種の“忖度”と見る向きもあるだろうが、単に“この人がこんな行動をするから面白い”という、キャラクターのギャップ自体がサービスとして機能していると見ることもできるだろう。実際、ビートたけしのことを、“そういう評価を受けるくらいには魅力的な存在だ”と言っても、過大評価ではないはずだ。スクリーンに映る彼の姿を長く眺めていたい観客は、いまや世界中にいるのだ。

 本作が真に個性的なのは、第2部が第1部のパロディになっているという点だろう。第1部が監督の過去作のセルフオマージュであったように、第2部では、さらにその直接的なパロディを展開している。同じ作品のなかで同じ作品のパロディをやるという挑戦は、稀有なものだといえよう。北野監督は、この試みについて、「映画におけるキュビズムをやろう」と説明している。「キュビズム」とは主に、一つの絵画作品のなかで複数の角度からの面を描いていく手法なのだが、確かにそれは本作の内容を端的に表しているといえなくもないと感じる。少なくとも、当初は。

 だが、よくよく考えてみると、「……本当にそうなのか?」という気にもなってくる。パブロ・ピカソの『アビニヨンの娘たち』のように、複数の面を同時に描く、もしくはマルセル・デュシャンの『階段を降りる裸体No.2』のように、複数の瞬間を同時に描くようなアプローチを取るのでなければ、真に「キュビズム」を映画として表現したとはいえないのではないだろうか。絵画に例えるならば、“同じ題材を異なる筆致で描いた連作を繋げて一本の映画にした”という方が実像に近いのではないか。さらに、その画題は“自作”であり、『TAKESHIS'』(2005年)を想起させる、“自分自身の解体”……つまりは、今回は自画像の連作に例えられるものだったと考えられる。

 美術を題材とした過去作『アキレスと亀』(2008年)では、“芸術とは何か”というテーマが設定されていた。しかし、そこには美術史における基本的な理解である、重要な作家や作品が成し遂げた、芸術分野における発明や発展という視点が抜け落ちていた。だから結局は『キッズ・リターン』(1996年)と同じく、個人の才能の話に終始していたことに、美術大学で美術史を学んだ筆者としては違和感をおぼえるところがあった。このように、アートというものへの認識については引き続き疑義が生じる一方で、厳しい才能の世界という視点にこだわるところに、芸人・ビートたけしならではの過酷な世界観があると認識することもできる。

 本作の試みが“キュビズム的”であるか否かという問題は、いったん置いておくとして、それよりも重要だと思うのは、北野監督が「絵画の歴史に比べれば、映画はしょせん100年ちょっと」、「映画はじゃんじゃん進化するべき」と語っている部分だ。筆者は、むしろその姿勢そのものついては、全面的に賛同することができる。(※)

 「映画」というものを、権威的な芸術として語る人は少なくない。だが、音楽や文学、美術、演劇など、より昔から存在する表現と比べると歴史が極度に短いことは事実でもある。洗練の面でも実験の面でも、これら既存の芸術ほどには進化できていないというのが、偽らざる映画の芸術表現としての“現在地”であり、そのことをしっかり意識しながら新しい分野に挑戦できる作家こそが、大きな変革や進化をもたらす可能性を生むはずなのだ。少なくとも日本では、そういう意識は稀有だと思うのである。

 だからこそ、本作『Broken Rage』について、既存の映画に近い価値観から批評をするというのは、ナンセンスな話だといえるのではないか。本作は、北野武、ビートたけしだからこそアプローチできる、自作を「脱構築(既存の要素を取り出して新たな構築をすること)」させながら新しい場所へ踏み出そうとする映画なのだから、表面的な面白さや、コントとしての完成度にはとらわれず、現代アート的な取り組みとして接する方が、楽しむという意味でも理に適った鑑賞姿勢だと考えられる。

 このようなアプローチに近いことをしている代表的な映画監督が、クエンティン・タランティーノだ。彼もまたB級映画の要素を解体しながら自作にコラージュし、B級映画というよりは、新たな価値を創出したアート作品として、映画作品を提出している。だからタランティーノ監督の映画は基本的に、“B級映画を題材としたアート作品”だといえるのである。そう考えれば本作『Broken Rage』もまた、“『アウトレイジ』や自分自身を題材としたアート作品”ということになるだろう。注目するべきは、解体する対象が、あくまで自作であり“自分”であるところだろう。

 “自分”というフィルターを通しながら、外部的な要素を利用していくタランティーノ監督。そして北野監督同様に自分のイメージにある種のナルシシズムをも含んだ興味を向けるも、正義や国家の問題など、やはり外部の要素を取り込んでいくことがあるクリント・イーストウッド監督。それらの映画作家に比べ、より純粋に、さらにナルシスティックに自分自身を追求していく姿勢こそが、北野武映画の特徴であり、本作はその純度がより高まった内容となったと考えられる。

 まさに、自分自身を周回し続け、“自分”をさまざまなかたちで表現し続けている、北野武監督のアート観が、自意識や才能という場所に収斂していたというのも、こういった認識を踏まえると、なるほど納得することができる。そして、あくまで芸術というものを、自分のなかから汲み出しながら、ジャンルの進化を企図もするとするという、ある種の矛盾をも含んだ行為そのものが“北野映画”であったということが、本作『Broken Rage』によって、非常に分かりやすく提示されたといえるのである。

参照
※ https://eiga.com/news/20250205/21/

■配信情報
Amazon Original映画『Broken Rage』
Prime Videoにて独占配信中
監督・脚本・編集:北野武
出演:ビートたけし、浅野忠信、大森南朋、仁科貴、宇野祥平、國本鍾建、馬場園梓、長谷川雅紀(錦鯉)、矢野聖人、佳久創、前田志良(ビコーン!)、秋山準、鈴木もぐら(空気階段)、劇団ひとり、白竜、中村獅童
音楽:清塚信也
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