『首』は北野武の集大成となる一作に 二大監督からの影響と世界に通用する表現を考える

北野武『首』から世界に通用する表現を考える

 監督としてのクリント・イーストウッドには、2人の師が存在する。自身が出演する作品を手がけたセルジオ・レオーネ監督とドン・シーゲル監督である。イーストウッド作品の数々には、彼らの作風を感じるところが少なくない。それでは、同じように演者・ビートたけしでありながら監督・北野武の、映画監督としての師は誰になるのかといえば、それは大島渚監督であり、精神的には黒澤明監督ということになるだろう。

 北野武監督が、安土桃山時代の合戦や陰謀劇に取り組んだ映画『首』は、まさに大島監督、黒澤監督の精神を受け継ぎながら、実験性と娯楽性が絡み合う北野映画ならではの表現がつまった、これまでの一つの集大成といっていい充実した一作に仕上がった。ここでは、そんな本作の内容を振り返りながら、その凄さの裏にある二大監督からの影響や、そこで分かってくる、世界に通用する表現とは何なのかについて、考えていきたい。

 坂本龍一のラジオ番組『NHK-FM サウンドストリート』に、ビートたけしがゲストにきた回がある。時代は、2人が出演する大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』(1983年)の撮影が終わり、これから音楽をつけようとする1982年。そこで2人は、自分たちの演技があまりにも恥ずかしいので、「人生の汚点になるかもしれない」、「フィルムを持ち出して燃やそうかと思った」、「公開前に大島を殺そうかと……」などと冗談を言い合っていた。

 坂本龍一はもちろん俳優ではなかったし、ビートたけしも、ドラマや映画には出演していたものの、当時は俳優として評価を高めていた時期ではなかった。それでも世界的に知られていた大島渚監督作品の重要な役にオファーされたというのは、おそらく大島監督が、いかにも俳優らしい演技をする俳優ではない、ある種の“異物感”を与える存在に新たな可能性を見出していたからなのではないか。それは、黒澤明監督が自作に所ジョージをキャスティングしたり、宮﨑駿監督が庵野秀明を主演声優に選んだことにも通じるところがありそうだ。

 当時のビートたけしが『NHK-FM サウンドストリート』で、映画監督への挑戦を仄めかしていたように、監督・北野武は、およそ7年後に初監督作『その男、凶暴につき』(1989年)を撮りあげることになる。そのシュールかつ暴力的な内容は、TVのバラエティ番組における“たけし”のイメージとは異なる、実験的で異様な迫力を感じるものに仕上がった。いまでは人気のある作品だが、淀川長治など限られた映画評論家以外には、この最初の作品を評価する者はそれほど多くなく、その後さまざまな作品を撮っていき、ヴェネチアやカンヌ、ベルリンなど、海外の名だたる映画祭で受賞を果たす快進撃を見せることで、国内の評価も高まっていったのだ。

 海外の評価を得ることになった理由は、まさしくこの“異物”としての圧倒的な個性だった。俳優としての自分と同様に、徒弟的な映画づくりを経験してきていない北野監督は、だからこそ慣習や常識にとらわれず、映画監督としても斬新な表現を発揮できたのだといえる。本作『首』も、まさにそういう“異様”な一作に仕上がっている。

 思い返してみれば、溝口健二監督や黒澤明監督、小津安二郎監督など、とくに海外で大きな評価を得ている監督は、職人的な部分を持ちながらも、枠にとどまらない異端的な側面が存在していた。先人の業績をただ洗練させていこうとするのでなく、根本の部分から独自の思想や映画表現を作品に反映させようとしていた。そういった挑戦的な姿勢や、日本の常識にとどまらない俯瞰的な視点があればこそ、観客が驚くような演出を見せることができるし、言葉や文化の異なる海外でも観客の心に届くような普遍性を獲得できるのである。

 世界で日本映画が大きな注目を集めるきっかけになった作品といえば、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した、黒澤監督の『羅生門』(1950年)が挙げられる。当時の海外の反応を知る淀川長治によると、世界の映画人たちは、志村喬演じる杣売り(そまうり)の男が山に入っていき、ひたすら歩き続けるシーンを観て、その撮影技術や演出の巧みさに驚愕したのだという。黒澤作品に心酔した海外の観客は、日本のオリエンタリズムに感心していたというより、むしろ自分たちに共通する部分での達成において評価をしているのである。ちなみに、『その男、凶暴につき』に、歩くシーンの持続を評価していたのも淀川長治であった。

 次々に実験的な製作手法をとり入れ、撮影や美術スタッフなどが新しいことに挑戦できるというのが、「黒澤組」の魅力だったという、当時のスタッフたちの証言は多い。つまり黒澤明監督は、日本映画を変革させる明確な意図を持って映画づくりに取り組んでいたというわけだ。

 時代劇のアクションにおいては、従来のような型通りの舞台演劇的なチャンバラを繰り広げるのでなく、人が斬られるシーンでは“肉の切れる音”とともに腕を飛ばし、斬られた者を痛みで悶絶させたり、血飛沫を勢いよく飛び出させるのである。“刀を使った戦いとは、ここまで残酷で暴力的なものなのだ”といったリアリスティックで反骨的な考え方が、新しい表現の可能性を広げていったのだ。

 黒澤明と北野武は対談をおこなっているが、そこでやはり黒澤監督は、北野演出の型にはまってないところに感銘を受けている旨を伝えている。突拍子もない描写がヌッと顔を出す北野作品の異様さに、自身の変革的な挑戦と同じものを感じたのだと推察できるところだ。

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