朝ドラ『おむすび』中間総括評論 B'z「イルミネーション」は“平成”をどう照らしたか?
NHK連続テレビ小説『おむすび』が始まってから1カ月が過ぎた。前作の『虎に翼』が大好評だったゆえに両作は良くも悪くも比較されがちで、かつて『あまちゃん』のあとに『ごちそうさん』が放送された時期の構図と似ているという指摘もあるようだ(※)。
しかし『虎に翼』と比べて云々とかいう以前に、この『おむすび』という物語の構造はそもそも複雑である。この複雑さを踏まえて、おそらく序盤の展開がひと段落したであろう現段階(2024年11月初週)で、いちど本作を総括しておこうと思う。
『おむすび』の物語が「複雑」だとすれば、それにはいくつか理由があるだろう。
一つは「『ギャル』になる」ことが少女の成熟と重ねられているという設定だ。主演の橋本環奈は今や国民的と言える女優だが、彼女に「ギャル」のイメージが投影されるのはやや意外である。いわゆる「ギャップ萌え」を狙ったというなら許容できなくはないが、果たしてどれほど成功しているかは微妙なところだ。
もう一つは、この物語の提示するジャンルが多すぎることにあるだろう。「ギャル」として成熟する少女の成長譚ということに加えて、まさにギャルメイク(浜崎あゆみといった)が象徴する「平成ノスタルジー」、1995年の阪神淡路大震災を題材にした「震災もの」、そして主人公・結の周りに彼氏候補が乱立するという「ハーレムラブコメ」の様相をも呈しており、これらが同時進行するためにかえって話が何も進んでいないかのような停滞感を生んでいたのは否めない。
ただし、このような複数要素の“同時多発”的な並立は、それ自体「平成」の比喩となるだろう。
そのことが“平成カルチャーの象徴”たるB'zが手がける主題歌「イルミネーション」とどのように結びつくのかを読み解くことで、現時点での「『おむすび』総括」を試みようと思う。
なぜ「ギャルメイク」が成熟の証となるのか
まず、ギャルになること、つまりある種の「(社会規範からの)逸脱」がなぜ少女の成熟と重ね合わされているのか、一見しただけではよくわからない。第1週を観る限りでは面食らってしまう視聴者がいるのもおかしくないだろう。
やがて本作で「ギャルになること」が結の成熟と重ね合わされているのは、それは彼女が「夢を持てないこと」に悩んでいるからだと明らかになる。
結の周りには、ダンサーになることを夢見る同級生や、メジャーリーガーを目指す高校球児など、明確な将来の夢を持った人物が何人か登場する。ぼんやりと「家業の農家を継げればそれでいい」とだけ考えていた結は、やがて無目的に生きてきた自身の生活に対して、「本当にそのままでいいのか」と自問自答するようになる。
その時期に彼女が出会っていたのが“ハギャレン(博多ギャル連合)”のメンバーだ。ギャルに抱かれがちな刹那的/無目的なイメージに反して、彼女らには「ダンサー」や「ネイリスト」といった明確な夢があることを知り、結はギャルに対する印象を改めるようになる。「家業の継承」という現状維持的思考で生きてきた結が、「脱規範」的なギャルのポジティブな側面に接近することで、“夢を持てない”少女の成熟が進行していくという構図だ。
そのことをB'zの「イルミネーション」が流れるあのオープニング映像が、視覚的に要約している。
同映像では、セーラー服の“白”ブラウスをまとった結に対して、背景は原色に近いタッチのカラフルなアニメーションが印象的だ。そしてサビ(0:34〜)に入ると結はギャルの衣装に変化し、背景のアニメーションと色彩的に同化する。そしてギャルになった結の後に登場するのは、栄養士になった=自身の夢を自覚した結である。
“白”——何色も選択できていない(進路を定められていない)結が、カラフルな背景と同化して「ギャルメイク」を施される。ギャルメイクによってどんな色にも染まりうる(=自由意志の)可能性に目覚めた後、栄養士という自身の夢を自覚するまでの成熟過程が、あのオープニング映像で示唆されているようだ。
そして「ギャルメイク」と「成熟」の関係を考えるならば、結にとってギャルが「トラウマの受け入れ」を意味することにも着目する必要があるだろう。作中では結の姉・歩(仲里依紗)が“ハギャレン”の元リーダーだったことが明かされるが、本編開始時点では上京していた歩のことを、結は嫌っていた。
なぜなら「ギャルの姉」は彼女にとってトラウマの象徴だからだ。
幼少期に阪神淡路大震災を経験した姉妹は、当時の友人であった真紀(大島美優)を亡くしていた。そしてそれまでは生真面目で面倒見のいい性格だった歩(少女期・高松咲希)が、震災を機に振る舞いが一変しギャルになったことが示唆されるのだった。このような意味で「ギャル」は結にとってトラウマの象徴である。
したがって結がギャルに接近することは、「進路の自覚」という意味だけではなく、「トラウマの受け入れ」という意味でも成熟として機能するだろう。
“リアリティのない”平成ノスタルジー
このように、結にとって「ギャルの否定」は「震災の記憶の否定」でもあった。すなわちそれは「平成の否定」でもあるが、平成を題材にしておきながら主人公が頑なに平成を否定し続ける序盤の展開に、停滞感を抱いていた視聴者がいたのは否めない。
しかしその停滞感は単に脚本のテンポが悪いからというだけでなく、「平成」を歴史として受け入れることが(結にとってだけでなく)我々にとっても難しいから生じるものではないだろうか。
第4週において幼い結(幼少期・磯村アメリ)は、震災によって倒壊した自宅の瓦礫を見て「これ、何?」と漏らす。あまりに「現実感を欠いた現実」を受け入れることができなかったのだ。同様に「平成」のことを「失われた30年」としか呼称できていない(平成が歴史として受け入れられていない)現状それ自体を、「ギャルと震災の忘却」を通じて平成を否定していた結が体現していたかのようである。
したがって結が「ギャル」に接近することは、二つの意味(自由意志への目覚め、トラウマの克服)での成熟を意味するとともに、「平成」の歴史認識の可能性をも意味するだろう。
そしてこのように「ギャル」の持つ意味があまりにも多重化している(にもかかわらず主人公がギャルを否定する)ために、特に序盤においての『おむすび』の物語構造は複雑さが極まっていたと言える。
「“ギャル”ゲー」としての朝ドラ
こうした複数ジャンルが乱立していることに加えて、本作には目立たないがもう一つのストーリーが並走していることも見過ごせないだろう。主人公・結による「ハーレムラブコメ」あるいは「“ギャル”ゲー」としてのストーリーである。