『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』に貫徹された破滅的な試み “上下巻”だから描けたもの
※本記事はネタバレを一部含みます。鑑賞前の方はどうぞご注意ください。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』をめぐる一連のネガディブキャンペーンにざっと目を通したところ、目に余るというより、そのどれもがどうでもいいものだった。前週比80%超の観客動員減だとかそんな話はニュースのヘッドライン担当者にでも任せておけばよろしい。私たち観客は、他のあらゆる映画に対してするのとまったく同じように、思い思いに好悪のシュプールを描けばよい。もしお嫌いならそれでよし、それならばあなたの毒づく唇を眺めておきたい。ただし、ネガティブキャンペーンに踊らされた言説だけはまっぴらだ。
なぜなら、この2部作じたいがネガティブキャンペーンに対して人はどのように乗り越えうるかについての赤裸々な記録であり、カルテだからである。前作『ジョーカー』(2019年)は予想外にヒットした。コロナ禍で進行した第2作の企画開発は、おのずと前作評価への批評的対処となっていった。前作で得た利益と高評価をいっきに蕩尽してしまおうという、豪気といえば豪気、じつに破滅的な試みが貫徹されたことになる。こんなわがままがいまだに平然と通ってしまう(平然とではないかもしれないが)映画芸術というものを、筆者はどこまでも愛してやまない。
2022年8月に第2作がミュージカルになること、そしてジョーカーの恋人ハーレイ・クイン役にレディー・ガガがキャスティングされることが発表されたのは、まったく意外ではなかった。監督のトッド・フィリップスがレディー・ガガ主演の『アリー/ スター誕生』(2018年)のプロデューサーをつとめていた関係性あってのキャスティングだろう。
思えば前作『ジョーカー』も音楽とともにあった。ただしそれは孤独な妄想の域にとどまっていた。それが今回、フォリ・ア・ドゥ(Folie à deux =二人狂い、共有精神性障害)というサブタイトルを与えられ、ハーレイ・クイン(レディー・ガガ)とジョーカー(ホアキン・フェニックス)の新カップルは、歌唱とともに多幸感をひたすら増長させる。ハーレイ・クインはDCユニバースの人気ヴィランであり、『スーサイド・スクワッド』シリーズ(2016〜2021年)ではマーゴット・ロビーがこの役をあざやかに演じ、アメコミ映画史に多大なインパクトをもたらしてきた。しかし問題は音楽そのものにある。『ジョーカー』の観客、またはDCコミックのファンは、きらびやかな歌謡ショーよりも、ゴッサム・シティが恐慌に陥るなかでクリームの「ホワイト・ルーム」がかかる瞬間の即効的カタルシスのほうを求めているだろうからである。
今年(2024年)9月、レディー・ガガは『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の全米公開に先立ち、ニューアルバム『Harlequin』をリリースした。このアルバムのコンセプトは、精神科病棟で非常に乾ききった、訓練されていない声で歌われたハーレイ・クイン(本作内ではHarleen Quinzel(ハーリーン・クインゼル)の本名からとられたニックネーム「リー」とだけ呼ばれている)の純粋な音楽的洗練に設定されている。映画内でジョーカーとのデュエットで、またはソロで歌われたスタンダードナンバーが、真性のレディー・ガガの充実した音域によってリメイクされる。ガガはアルバムについて次のように述べている。
「ホアキン(・フェニックス)が毎日、私を怖がらせて、私の声を私の身体から消したのです。」(公式リリースのインタビューより)
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』がヴェネチア国際映画祭でワールドプレミア上映された時、スタンディングオベーションに笑顔で応えながら、トッド・フィリップスがレディー・ガガに「この映画はクソだ」と耳打ちし、ガガが「そんなこと言わないで」と取りなすのが読唇術によってレポートされたが、私たちは作者側のこうした気弱なリアクションさえも無視して、映画に対峙すべきなのである。本作の製作プロセスにおいて生じた多くの試練にレディー・ガガは毅然として耐え、映画と音楽の両面で成果を出した。
フランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の編集長マルコス・ウザルは「この詰め込みすぎたコラージュの映画は、登場人物と同じくらいに常軌を逸し、狂気を帯びている」と評した。私が本作に感じたことをほぼ正確に述べた評言だ。ようするに、第1作で主人公の狂気が街全体に伝播していくプロセスが描かれ、第2作では映画の製作行為それじたいが主人公の狂気をまとっていったのである。だからこの2本はパート1とパート2という関係なのではなく、前後編または上下巻の2部作ということになる。ちょうどセルゲイ・エイゼンシュテインの『イワン雷帝 第1部』(1944年)と『イワン雷帝 第2部』(1946年)のような。あるいは、フリッツ・ラングの『ニーベルンゲン ジークリート』(1924年)と『ニーベルンゲン クリームヒルトの復讐』(1924年)のような。前編または上巻にはことの発端があり、英雄性の伝播があり、高潮がある。そして陰惨きわまりない返歌として後編または下巻がある。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のキーワードは、末尾の「ドゥ」(= deux)つまりフランス語の「2」という数字である。まず、もちろん2人であるという点。そして、主人公アーサー・フレックにとってジョーカーは別人格なのか、それとも身振りの演戯なのかの2択。そしてハーレイ・クインがもたらした孤独の解消および多幸感と、アーサー自身がそれを断念しようという秘かな観念の2択。ジョーカー裁判はまるで、前編=上巻(もはや前作とは呼ぶまい)でいうところのマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)司会の番組収録のように変容していく。あの番組の時と同じく、いつ暴発してもおかしくはないバイオレンス的欲望。しかしアーサーは法廷の最終弁論で民衆の欲望(=観客の欲望)をはぐらかし、促されてすらいない母親殺しの自供までしつつ哀れにうずくまる。まさにマルコス・ウザルの書く「登場人物と同じくらいに常軌を逸し」た瞬間である。か弱いアーサーがジョーカーを無化しえた瞬間であり、『汚れた顔の天使』(1938年/マイケル・カーティス監督)におけるジェイムズ・キャグニーの域に達した瞬間である。
周囲にジョーカリズムを崇拝するフーリガン集団が形成され、誰もがジョーカーになれる。だからこそ元祖たるアーサー・フレック本人が、ゲームの収束を図る。崇拝の温床となった再現ドラマシリーズは、ワンカットさえも引用されない。後編=下巻は内側も表側も裏切りの映画としてある。まるで『イワン雷帝 第2部』のように。自身が波及させたアナーキーな快感を裏切っただけでなく、その反動として装備されるはずのバットマン的な自警団主義をも裏切ったのだ。ゴッサム・シティにおけるジョーカーvsバットマンの対決は、やがて『ダークナイト ライジング』(2012年/クリストファー・ノーラン監督)のベインvsバットマンへと横滑りするしかなく、あれらは変種同士の同士討ちにすぎないからである。
『ジョーカー』前後編が選びとった話法は、いわゆる「信頼できない語り手」(Unreliable narrator)である。情緒不安定、精神疾患、自己韜晦によってナラタージュの信頼性が大きく損なわれた状態にあり、どこまでが現実なのか、どこからが妄想なのかわからない。境界の曖昧さが『ジョーカー』前後編の性質そのものを体現してもいる。ハーレイ・クイン&ジョーカーの生き生きとした歌唱ショーは妄想の産物でしかないが、そこで歌われた感情にはまったく嘘はなく、むしろ現実以上に真実を吐露している。であるがゆえに、音楽は危険ですらある。