『哀れなるものたち』が映し出す“現在”の問題 奇妙な物語と過激な描写を通して伝えること

『哀れなるものたち』のテーマ性を解説

 野蛮さと洗練されたセンスという、一見矛盾した要素を併せ持つスタイルが、観る者たちの心をざわつかせ、類まれな知性と才能でアートフィルム界に、その名を刻んできたヨルゴス・ランティモス監督。『ロブスター』(2015年)、『聖なる鹿殺し』(2017年)、『女王陛下のお気に入り』(2018年)と、その手腕はますます冴えを見せ、名だたる映画賞を次々に獲得している。

 そして、ついにヴェネチア国際映画祭の最高賞、金獅子賞に輝いたのが、『哀れなるものたち』である。さらにはゴールデングローブ賞でも複数の受賞を果たし、アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演女優賞を含む11部門にノミネートされ、これまで以上の快進撃を見せている。それだけでなく、アメリカでの興行収入も好調で、本作は、もはやランティモス監督を、アートフィルムの枠を超えた存在に押し上げることとなった。

 それもそのはずで、本作『哀れなるものたち』には、“激烈”な面白さがあるのだ。もちろん、アート文脈でも楽しめるが、波乱万丈でショッキングなシーンが続く、エキセントリックでエクストリームな内容は、批評家だけでなく、多くの観客の心をとらえている。そして何より、“現在”の問題を映し出すテーマ性が響いている。ここでは、そんな本作が描いたものを分析し、解説していきたい。

 本作は、スコットランドの作家、アラスター・グレイの小説が原作になっている。つまり今回は、ランティモス監督のオリジナルストーリーではないということだ。しかし、その内容やテーマには共通する部分が多く、この原作を映画化したいと望んだ理由には、深く納得できるところだ。主演俳優のエマ・ストーンは、『女王陛下のお気に入り』の撮影時に、この企画を紹介され、出演を望んだのだという。

 素晴らしいのは、ヨルゴス・ランティモス監督自身が、本作について巨匠フェデリコ・フェリーニ監督の影響に言及しているところだ。フェリーニ監督といえば、現在では稀有といえる製作環境や独自の表現を手に入れていた、傑出した映画人の一人だ。そんな伝説的存在を、いま目指そうとしているところに、商業的成功に甘んじることのない彼のアーティストとしての意志の強さを感じるのである。本作ではその意志のもとで、ジェームズ・プライス、ショーナ・ヒースという、突出した個性を持つアーティストが、既存の映画におけるヴィジュアルイメージを乗り越えた美術を実現し、衣装のホリー・ワディントンもまた、主人公のドレスなどを中心に、攻めたゴシックファンタジーの世界を、高い次元で成立させている。

哀れなるものたち

 主人公は、大人の女性の身体に胎児の脳を移植されたベラ(エマ・ストーン)だ。倫理観を逸脱した天才外科医ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)は、みごもったまま身投げした女性の遺体を偶然見つけると、大掛かりな脳移植の外科手術を施し、「フランケンシュタイン」のように電気ショックで蘇生させたのである。そしてベラは、ゴッドウィンの邸宅で隠されて育っていくことになる。

 ベラの姿は大人だが、頭脳の方は子どもなので、その振る舞いは奔放で常識はずれだ。それでも、彼女は急スピードで脳を成長させていき、知識を吸収していく。その過程では、性的な興奮をもおぼえる。そして、ベラに愛情を抱いたゴッドウィンの助手(ラミー・ユセフ)と婚約することに。しかし、彼女は成長の過程で、外の世界を見ることに強烈な欲望を抱き、プレイボーイの弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)と駆け落ちし、冒険の旅へと出るのだった。その後、ベラは各地を巡って、さまざまな現実に直面し、パリでは娼館で働くこととなる。

哀れなるものたち

 肉体損壊や外科手術などのグロテスクな描写や、セックスに耽溺したり、娼婦として異様な男たちの相手をする描写など、本作は次々に過激な表現を続けていく。それでいて面白いのは、無分別で破天荒な、狂気すら感じる描写が連続しながら、同時に倫理的で客観的な視線も絶えず存在していると感じられることだ。そして本作は意外にも、過激さや哲学的探求の果てに、「フェミニズム」への扉を開いていく。端的に言えば、本作は『バービー』(2023年)とも繋がるような、過激な“フェミニズム映画”といえるのである。

 興味深いのは、エマ・ストーン演じるベラが、主に性的な事柄について、さまざまな精神的段階を経験する“女性”を体現しているという点だ。ベラが性的な面での成長を見せたとき、周りの人間たちは、社会的な事情を理由に、それをあらわにすることを押しとどめようとする。これと同様に、多くの女性は、往々にして慎み深くあるように促され、“女性らしさ”という名目の抑圧を受ける場合が少なくない。

哀れなるものたち

 その反動もあって、ベラはダンカンとの放蕩の日々に没頭するようになる。ここまでのベラの状態は、確かに自由で奔放で、抑圧を跳ね除けているところがある。しかし、その一方で、精神的には幼い状態のベラと大人の男性が結婚しようとしたり、プレイボーイが性的行為を目的に言葉巧みに手なずけようとするなど、大人たちが彼女の幼さを良いことに“グルーミング”と呼ばれるような行為に乗り出しているようにも見える。そしてベラは、それを“自由意志”だと思いながら、実際には“選ばされている”部分もあったのではないか。

 それは、パリの娼館で働いてからも継続されることになる。ベラは、自分の意志で対等な取引をしていると感じながら、性風俗産業の末端に従事し始めることになるが、結局は、金銭をかなりの部分で搾取されながら、生理的に嫌な相手の性的行為にも応じねばならない、否応無しの状況に陥っている。もちろん、セックスワーカー本人の自主性や尊厳は尊重されるべきだが、実際的には本人の“自由意志”を口実に、巧妙なかたちで都合良く利用され、ビジネスの歯車や、一方的なはけ口にされている現実もあるというのは事実だといえる。

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