恋愛が強制されるホテルで、ダンスと性はどんな意味を持つ? 『ロブスター』の奇妙な世界
2010年前後、世界の映画界で「グリーク・ウィアード・ウェーブ(Greek Weird Wave)」と呼ばれる現象が起きた。財政破綻を迎えていたギリシャから突如、奇妙な映画たちが次々と現れ、カンヌやヴェネチアをはじめ各映画祭を驚嘆させたのだ。
その筆頭格だったのが、ヨルゴス・ランティモスという映画作家だ。これまでに、極めて独創的な作品を発表してきた。そのキャリアをざっと見てみよう。2005年の初長編作『kinetta』では、オフシーズンのホテルで謎の映画のリハーサルを繰り返す男女とそれを撮影するカメラマン3人の奇妙な日々を描いた。日本でも公開された『籠の中の乙女』(2009年)は、社会から隔離された家庭で父から特殊教育を受ける兄妹らの寓話で、ランティモスが一躍脚光を浴びた作品だ。その後、遺族の悲しみを和らげるため故人になりきるサービス組織についての『アルプス ALPS』(2011年)を発表。いずれの作品にも共通しているのは、「ルール」=「支配」に関する映画であるということ。『ロブスター』でも、それは明確に提示される。
「恋人のいない独り身の人間らはただちに捕らえられ、郊外の“ホテル”で調教を受けなければいけない。そこで45日以内に恋人を見つけられなければ、お望みの動物に変身させられる。ただし、“森”に住む“独身者”らを麻酔銃で撃てば、敵1人につき1日期限を延ばすことができる。なお、“ホテル”内での自慰行為は禁止」
以上が、本作の「ルール」だ。ただし、これが適用されるのは“ホテル”での話。逆に“独身者”らが集う“森”においては、恋人を作ったり、それに準ずる行為が見つかった場合、暴力的な厳罰を受けることになる。そんな世界に生きる主人公を演じるのはコリン・ファレル(「世界で最もセクシーな男」ランク入りのスターを、約12年間恋人のいない腹の膨らんだ中年役に抜擢するというのもまた憎いキャスティングだ)。彼が“ホテル”から“森”、そして“街”へと移動するごとに、「ルール」は変わっていく。かといって、彼はその変化に混乱するわけでもなく、おとなしく従う。
通常であれば、そこに心理的葛藤の激しいドラマがあったりするものだが、ランティモス作品では、支配されていることに対する抵抗や痛みが希薄。それでいて、いざ個人的な欲望が芽生えたならすぐに行動する。だから、状況の割になんだかとても軽い。でもここには、無意識のうちに支配されている現実社会への強い批評性が感じ取れる。突飛な「ルール」のゲーム上に配置された、感情が死んだようなキャラクターが操作される様が醒めた笑いを誘うが、我々がこの現実を生きる姿はそれほど違っているのだろうか。
また、ランティモスは「セックス」「ダンス」という人間の快楽運動に対しても独自のアブローチをする。劇中、とある人物が動物に変えられる前日を迎え、“ホテル”の主はこう助言する。
「あなたは今日だけ自由に過ごすことができる。なので、人間らしく過ごすことを勧める。読書をしたり、歌を歌ったり……散歩やセックスをするのは馬鹿げてる。それは動物になってもできるから」
恋愛が強制される“ホテル”と禁止される“森”のいずれにおいても、セックスが空虚な行為として扱われ、演出としても動物的、はては機械的な繰り返しの運動として処理される。だが同時に、セックスは個人が支配を自覚する契機ともなるのだ。『籠の中の乙女』でセックスを覚えた長女が脱出を目指すようになったのと同じく、本作の主人公もまた“ホテル”でのセックスを経て、“森”へ向かうことになる。そして、“森”でもまた新たなセックスがあり、物語は急展開する。