『らんまん』綾を“女神”にしなかった意図とは? 長田育恵が描き続けるままならない現実
NHK連続テレビ小説『らんまん』第18週は、悲しい週だった。
「時代の変わり目に生まれついた」万太郎(神木隆之介)、寿恵子(浜辺美波)、綾(佐久間由衣)、竹雄(志尊淳)たちはこれまで、「ご先祖の誰一人知らん風」が吹く中を、各々の「好き」を貫くため、新しい道を一生懸命切り開きながら歩んできた。例えそれが「身の丈に合わない望み」だったとしても。例え、自分自身を「呪い」なのだと思わずにはいられなかったとしても。
「それでもどうしても」と前を向いて、「呪いではなく祝いなのだ」と自らを鼓舞し、片や長屋の壁を取っ払い、片や「今の世に生きる私らの酒」を造ろうと工夫する彼ら彼女らの前に立ちはだかったのは、あまりにもままならない現実だった。万太郎と寿恵子の娘・園子の死と、酒の腐造と峰屋の廃業という2つの悲劇が立て続けに描かれた第89・90話は、悲しく衝撃的な回ではあったが、一方で、悲しいだけでは終わらない、人々の強さもまた、描かれていた。
『らんまん』は植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとした、長田育恵によるオリジナルストーリーである。ただ史実に沿って描くだけでなく、「好き」を貫き、なおかつそれぞれの特性を活かすことの大切さを説くなど、「推し」を愛する現代人の心にもより刺さる物語が描かれたりもしていて、安定感もありつつ、非常に挑戦的で興味深い構造になっている。
何より衝撃的なのは、綾の新しい酒造りという挑戦の矢先、腐造が起きてしまい、ただでさえ酒税問題で苦しめられていた峰屋は即座に廃業に追い込まれるという、綾にとって最も残酷な展開だろう。誰もそのことを責める人はいないけれど、いないからこそ余計に、第4話の「おなごが入ったせいで腐造を出したらどうするがぜよ」という杜氏・寅松(嶋尾康史)の言葉や、第62話における女性であるために同業者に忌み嫌われ「私が呪いながじゃ」と言う綾自身の言葉が甦り、自分を責めるなと言われても責めずにはいられないだろう彼女の心境を慮らずにはいられない。
遡れば、前半パートの総括回である第13週第65話は、万太郎と寿恵子の祝言の回であると同時に、槙野の「家」の解体の儀式の回でもあった。祖母・タキ(松坂慶子)が本家と分家を区別してきた自らの過ちを認め、彼らが共に歩む未来を願い、さらには、元は本家の生まれではない綾と、奉公人だった竹雄が夫婦となり、槙野家を継ぐことが決まる。身分や性別、「家」に縛られていた古い時代が終わり、新しい時代が始まることを予感させる、槙野家の象徴的な出来事は、自由民権運動といった当時の世相をも反映した、主人公たちの「家」と「個人」の葛藤を巡る物語としての前半パートを見事に締めくくった。
そんな綾と竹雄が「今の世に生きる私らの酒」造りを目指すなんて、これが並みのドラマなら、史実に基づいたドラマでなかったら、むしろ現代の酒蔵のドラマだったなら、酒蔵の神様は、女神だろうと何だろうと、健気で真っ直ぐな高知編ヒロイン・綾に味方していたことだろう。それにもかかわらず、本作は、彼女たちが最も愛してやまないものを、最も残酷な形で奪い去っていった。