『らんまん』万太郎はなぜ田邊の名前を記載しなかったのか “義理と人情”の世界を考える

『らんまん』万太郎と田邊を考える

 結婚して子供もできて、本格的に植物学者としての険しい道を歩み始めている万太郎(神木隆之介)が新たなフェーズに向かうことを感じる『らんまん』(NHK総合)第17週「ムジナモ」。それは天国か地獄かーー。

 長屋の人たちや東大植物学教室の人たちとお別れフラグではないかというような、回想が何度も出てきた。長屋の人たちは、一度人生に失敗した人たちの集まりで、貧しく未来に希望もなくただ生きているだけという感じであったが、万太郎に出会ったことで、今を笑って楽しむこと、希望を持っていいのだということを自覚するようになった。

 東大植物学教室の人たちも、東大で居場所がなく、しぶしぶ在籍していた植物学科で、万太郎に刺激を受けて自分なりの課題を見つけ、向上心を持つようになる。これは、ドラマの高知編の竹雄(志尊淳)や綾(佐久間由衣)を通して描かれたことのリフレインである。

 身分制度により誰かの使用人として生きるものと思い込んでいた竹雄や、男女差別によってやりたいことが抑制されていた綾は、万太郎との出会いによって、自分のやりたいことをやろうと思うようになる。第18週の前半では、久しぶりに登場した綾と竹雄が、新たな酒を作ろうと決意している。万太郎と接すると、心のうちの欲望がもたげてきてしまうようだ。

(上から)槙野万太郎役・神木隆之介、倉木隼人役・大東駿介

 万太郎は、出会った人たちをがんじがらめに縛っているものを解き放ち、自由に行動できるようにする。地方の人も、東京の人も、富める人も、貧しい人も、身分の高い人も、低い人も。まんべんなく万太郎は蝶やミツバチのように飛び回って、囚われた人の心に希望の花を咲かせる。

 『らんまん』ははじめから一貫して、人間ひとりひとりの自由を描いている。大事だからこそ繰り返し、環境も行き方も違う様々な人たちを通して自由を獲得する姿を描くのだろう。最初から解き放たれて自由な人・万太郎を「天使」と呼ぶことは容易い。だが、万太郎は天使なだけではなく、どこか小悪魔的なところもあるのだ。

(左から)田邊彰久役・要潤、大窪昭三郎役・今野浩喜、槙野万太郎役・神木隆之介、山根宏則役・井上想良、澤口晋介役・犬飼直紀、波多野泰久役・前原滉、藤丸次郎役・前原瑞樹

 田邊教授(要潤)の専属プラントハンターにならないかという誘いを断って、大学という権威に属さずして植物研究を究めようとしていたところ、田邊の厚意で、日本では初めて発見されたムジナモの論文を発表していいと許可を得た万太郎は、はりきって、論文を書き、植物図も入魂の作を描いた。それを目玉にした『日本植物図譜 第三集』を発行したが、そこに田邊の名前を入れず、彼を怒らせ、教室を出禁にされてしまう(第85話)。

 あれだけ、植物の名前にこだわり、植物の細部を徹底的に認識し図示し、植物に重ねて、人間には誰にでも名前と役割があると主張する万太郎が、田邊の言動を単なる厚意のように受け取り、記録しないのは、どこか矛盾がある。人間は矛盾の生き物。天使の面も悪魔の面も持っている。

 冷静に考えると、論文を共著に、というのは、あくまで義理人情に則ったものであり、正当ではないだろう。だが、やっぱり田邊の知見や提案で論文を描いたのだから、なんらかの謝辞はあっていいのではないか。だが、万太郎は、そうしなかった。学問に夢中で、うっかりしていたのか。いや、「みんながおったきこそ、わしはこの1枚が描けた」と田邊も含めたみんなの顔を思い出しながら絵を描いていた。となると、自分のやったことも、いつか誰かが継いで研究を進歩させていけばいいと思っているだけと考えるのが妥当であろう。

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