『君たちはどう生きるか』タイトルに繋がる3つの要素 残酷な世界で生きていくということ

『君たちはどう生きるか』を紐解く3つの要素

 「君たちはどう生きるか」。この問い以上に、現代(いま)を生きる人々へ贈るべき言葉はないだろう。そして、日本のアニメーション映画史を代表する宮﨑駿監督ほど、この言葉を発するに値する人物もまた、存在しない。

 映画『君たちはどう生きるか』が7月14日から公開された。プロデューサーの鈴木敏夫による意向で、「事前に宣伝を一切行わない」という処置が取られたまま公開日を迎え、筆者も本編について何も情報のないまま初日に鑑賞するに至った。そしてエンドロールが終わり、劇場が明るくなった後、強く感じた。この作品は、宮﨑駿の人生そのものなのだと。それほどの覚悟と気概に満ちた作品であり、そして、彼が映画を通して発するメッセージの重大さをひしと感じるまでに至ったのだった。

以下、ネタバレあり

 本作は戦時下、空襲警報の鳴る町で1人の少年・眞人が病院にいる母親の元へ駆けつけようとするシーンから始まる。燃え盛る炎と黒ずみひしめく群衆の中、我を忘れて奔走する眞人。そこから時は流れ、空襲で母を亡くし、父の再婚相手である母の妹・夏子の元へ身を寄せることとなる。先祖代々が暮らしていた屋敷で過ごす内、眞人は離れにある奇妙な塔を見つけ、そこに自分を誘いこもうとする奇妙なアオサギと対峙する。アオサギに誘われるまま、謎めいた塔へと足を踏み入れると、そこは現実世界とは異なる不思議な世界と繋がっていたーー。

 まず、物語から見えてくる『君たちはどう生きるか』というタイトルへの結ばれ方についてだが、主に筆者は3つあると考えている。1つ目は、劇中で頻繁に登場する炎の描写。2つ目は眞人が序盤で負う側頭部の傷。3つ目は、眞人と夏子という義親子同士がそれぞれ背負う苦しみだ。

 1つ目の炎の描写だが、オープニングシーンで眞人が空襲下の町を無我夢中で走るシーンから中盤あたりまで、彼の原体験と頭の中で反芻される恐ろしさや狂暴さを彷彿とさせる“戦火”としての炎に注目したい。眞人の母・ヒサコは、彼が見る夢や幻想で何度もその炎に巻かれ登場する。ヒサコを死に追いやった炎は世界の愚かさ、恣意と暴力に満ちた炎であるのに対し、眞人が降り立った別世界に生きる、炎を操り悪を遠ざけようとする少女・ヒミが身に纏うのは清廉かつ美しい色を放つ炎だ。両者が纏う炎の描かれ方には明確な差異がある。そして重要なのは、“ヒミがヒサコと同一人物であり、つまりは眞人の母親である”という事実だ。

 己の身を焦がした炎を纏い、何よりも“生きていて” 、“自分を慕ってくれる”ヒミの存在は、母の死を経験して以来凍りかけていた眞人の心を動かしていく。眞人が物語を“経験”して下す決断が、本作の“主人公”としての答えなのだが、同じ炎でもまったく性質の違う2つのものを目にして、自分はどうするのか、過去を変えるのか、それとも未来を生きるのかという選択を、観客にも問いかけているのだろうという見方もできる。身を苛烈に灼く炎に、大切な人が苛まれている光景を見つめる覚悟ができるのか。観客が眞人の負った心の傷に直に触れることで、“君たちはどう生きるか”という問いがより真実味を増して眼前に迫ってくることと思う。

 傷、といえば、“実在した傷”として眞人が自ら石で頭を打ち負った側頭部の傷も重要だ。彼はこれを終盤まで「転んでできた傷」と弁明するのだが、実のところは自分自身の手で“自傷のように”して作った傷である。この傷について、別世界の創造主である大おじと邂逅したとき、彼に向かってそれが悪意のある、自らつけた傷であることを告白するシーンがある。これは自分の過ちや過去を全て受け入れて発する言葉であり、「新しい世界を創ってほしい」と話す大おじに対し、自分の生きる世界を生きていくと表明するための言葉でもあった。そのとき2人の傍には、世界を創造するための巨大な石があった。傷、というミニマルだが、そこに確かに“痛み”の介在するものと、間接的であるが“生きる痛みや苦しみ”のある世界を一気に凝縮し機械的に顕在化させたもの(世界を創造しうる莫大なエネルギーを持つ)の並列、その地点(ポイント)で眞人が下した決断は、大いなる勇気を伴うものであるがゆえに、生きることに迷いがちな現代人の心の奥深くに刺さるものがあるといえよう。

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