『ミツバチのささやき』日本で人気の背景とは 宇野維正×森直人がビクトル・エリセを語る
ビクトル・エリセが後世に与えた影響
宇野:あと、『ミツバチのささやき』に関しては、主役のアナ・トレントがかわいすぎるというか、そのアイドル性みたいなところが普通の映画好きのあいだで盛んに語られてきた。あの頃って、まだ無防備に少女のかわいさを称揚できた時代だったじゃないですか。今、そういうことを言うと、特に人文系の界隈ではやれロリコンだのペドフィリアだのって言われるけど、その頃はまだ「宮崎勤事件」以前の時代ですから。
森:まあ、ロリコンブームっていうのは、確かにありましたからね。ピークは80年代の前半ぐらいかな。吾妻ひでおさんの漫画とかに象徴されるような。
宇野:その後ろめたさが、社会的にもまだあまり共有されてなかった時代。
森:むしろ、わりと文化的先端みたいなイメージだったと思う。なんせ、元ネタがナボコフ(の小説)ですからね(笑)。「ロリータ・コンプレックス」っていう言葉は、そもそも蔑称どころか知的な意匠だったっていう。
宇野:実際、アナ・トレントのことを性的なまなざしで見ている人なんて、ほぼいなかったと思うよ。大学の友達で「好きなタイプは?」みたいな話になった時に「『ミツバチのささやき』のアナ・トレント」とか普通に言ってるやつもいたけど、それを聞いても当時は「スカしてんな」って思うだけだった。
森:確かに、そういう人いたわ(笑)。
宇野:だから、現代の常識で過去のあれこれをジャッジすることって本当に不毛なんですよ。実際、『ミツバチのささやき』がここまで日本で人気が出たのと、中でもとりわけアニメーションまわりの人たちにも非常に支持されているっていうのは、やっぱりどっかで繋がっている話だと思うんだよね。アニメーションの作り手って、とりあえず少女を主人公にしがちじゃないですか。最近は、アニメーションでも一般向けの作品だといろいろ言われる時代になってきてるけど。
森:それを言ったら、『エル・スール』だって、少女が主人公ですからね。『ミツバチのささやき』よりは年上だけど、あれはあれで少女とお父さんの話なわけで……。
宇野:そうだね。
森:ただ僕は、『ミツバチのささやき』と『エル・スール』って、結構ファン層が違うように思っているんですよ。『エル・スール』は、もうちょっと大人の話というか、これまた乱暴に要約しちゃうと、お父さんの男としての顔を知ってしまった少女のお話。そういう意味で、『ミツバチのささやき』がロリコン的だとしたら、『エル・スール』ってファザコン的とも言えるんですよね。
宇野:そうだね。『エル・スール』は、当時の男性作家の作品としては珍しく女性的なテーマだったよね。父親の抑圧とか。まあ、抑圧だけじゃなくて、あこがれもあるんだけど。そういうアンビバレントな感情を描いた作品だった。
森:そもそも『エル・スール』って、当時エリセのパートナーだった女性、アデライダ・ガルシア・モラレス(2014年に逝去)の短編小説を原作としているんですよね。まあ、その小説が実際に出版されたのは、映画の公開後だったみたいだから、ある種映画のノベライズ的なところもあるのかもしれないけど。
宇野:あ、そうなんだ。
森:それで思い出しましたけど、行定勲監督の『ナラタージュ』(2017年)って映画があったじゃないですか。あれは完全に『エル・スール』オマージュなんですよ。
宇野:あ、そうだっけ? 『ナラタージュ』の主人公二人って、そんなに歳の差なんてなかったじゃん。
森:もともとの原作である島本理生さんの小説に、『ミツバチのささやき』だったり、『エル・スール』だったり、ビクトル・エリセに関する言及がいっぱいあって。彼女自身、エリセの映画が大好きみたいなんですよね。それこそ、映画では有村架純さん演じる泉が好きな映画が『ミツバチのささやき』で、松本潤さんが演じる葉山先生の好きな映画が『エル・スール』っていう。作中に『エル・スール』を観るシーンもあったりして。もちろん行定さんも『エル・スール』はきっと大好きだろうって思うんだけど、実は原作からして、ビクトル・エリセにめちゃめちゃ影響を受けている作品なんですよね。
宇野:原作は読んでないんだけど、なんか映画については思い出してきた。
森:あと、『エル・スール』自体、昔の恋人に思いが残っているお父さんの話なので、『ナラタージュ』とちょっと繋がるようなところがあって……。
宇野:お父さんが昔、人気女優と不倫していたっていう筋立て自体、最近どっかで聞いたような話でもあるけど(笑)。
森:やめてください(笑)。
宇野:まあ、エリセの場合、実際に女性のファンも多いわけじゃないですか。だから『エル・スール』は、『ミツバチのささやき』以上に、女性にとって「これは、自分のストーリーだ」って思わせるようなところがあったのかもしれないよね。そういう意味では、あの当時の作家としては珍しかったというか……まあ、エリック・ロメールとかはいたけど、それとはやっぱちょっと違うじゃん。
森:そうですね。あと、雰囲気もすごくいいんですよね。そもそも『エル・スール(南)』っていうタイトルも、すごく情感があるし、あの風見鶏のある「かもめの家」の佇まいとか、妙にお洒落だし。実際は北のバスク地方のお話で、南に行く前に映画が終わっちゃうんだけど、その南には、オメロ・アントヌッティ演じるお父さんが内戦の頃に別れた恋人がいるんですよね。彼は南の出身だけど、体制派の身内と喧嘩して故郷を捨て、北に逃れてきたわけですよ。だから僕にとっては、『エル・スール』って、実はスペイン内戦の痛みってものを、いちばん整理して教えてくれた映画かもしれないです。あと、例えばペドロ・アルモドバルとかの濃厚な、南っぽいスペインじゃなく、北の淡泊な詩情も、エリセ独特の魅力的なトーンになっている気がする。
宇野:ちなみに、俺がいつも行っている西荻窪のお花屋さんがあって、ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ系)の最終回にも出てきたお花屋さんなんだけど、その店の名前が「エルスール」っていうんですよ。
森:あ、観た観た! 確かに出てきましたね。
宇野:とても素敵なお花屋さんで、俺は何かあるといつもそこで花を買うんだけど(笑)。
ーーそれ、必要な情報かな……。
宇野:いや、ちょっとイメージアップしておこうと思って。
森:(笑)。でも、そうやってお店の名前になるぐらい、日本では人気がある映画というか、影響力のある作品だっていうことですよね。
ーー今、ふと思い出しましたけど、セリーヌ・シアマの『秘密の森の、その向こう』(2021年)も、ちょっと『ミツバチのささやき』っぽいところがあったような……。
森:ああ、確かに。それは、めっちゃある気がする、言われてみると。
宇野:確か、セリーヌ・シアマはジブリからの影響についてはインタビューとかで語っていたよね。
森:そうそう! 確かにあの作品は『となりのトトロ』の直系ですよね。
宇野:だから、ジブリ経由の『ミツバチのささやき』なのかもしれないし、もちろんセリーヌ・シアマくらいの監督だったら『ミツバチのささやき』も観てるだろうけど、いずれにせよすべての道は『ミツバチのささやき』に通ずということ。
森:全部繋がってきたじゃないですか(笑)。そういえば深田晃司監督も、『ミツバチのささやき』と宮﨑駿、両方の大ファンなんだよな。あと、もうひとつ大事なことを思い出しました。森井勇佑監督の『こちらあみ子』(2022年)。この中で、主人公の少女あみ子が、自宅のテレビで『フランケンシュタイン』(1931年)を観ているシーンがあるんですね。まるで『ミツバチのささやき』のアナと同じように。これは今村夏子さんの原作小説にはない描写で、森井監督が独自に引いた補助線なんですよ。