ミニシアターブーム再検討から、宇野維正×森直人がシャンタル・アケルマン再評価を紐解く

宇野維正×森直人がアケルマン再評価を語る

アケルマン的主題の定義は「制度と個」の葛藤や摩擦

『オルメイヤーの阿房宮』©Chantal Akerman Foundation

――「性の揺らぎ」あるいは「生の揺らぎ」という観点では、どうでしょうか。今回の4作品は、いずれも自身の「性」と「生」に不安や揺らぎを抱えている人間が、数多く描かれているようにも思いましたが……。

森:そうですね。アケルマンの映画って、主人公のバイセクシュアル性が強く前面化していることが、ひとつ特徴的なポイントとして挙げられると思っていて。つまり簡単に割り切れない「性/生の揺らぎ」……個の多義性や複雑さが、世の中のシステムやコードを撹乱させていく。だからざっくり言うと、「制度と個」の葛藤や摩擦が、アケルマン的主題の定義としていちばんしっくりくるかもしれない。僕は、今回のラインナップで言ったら、『オルメイヤーの阿房宮』がいちばん自分の好みなんですけど、なぜかと言ったら、フェミニズム以外の文脈も多いからなんですよね。あの映画は、女性差別に加えて植民地主義、白人優位やアジアンヘイトなど、あらゆる「制度と個」の澱みを批評的に撃つような視座がある。まあ、僕は「コンラッドもの」は、基本的に好きなんですけど(笑)。

宇野:「コンラッドもの」って?

森:それこそ、『闇の奥』を原作にした『地獄の黙示録』とか、リドリー・スコットの『デュエリスト 決闘者』(1977年)とか。あとコンラッドではないけど、ヘルツォークの『フィツカラルド』(1982年)とかも『闇の奥』イズムを感じますね。誇大妄想に取り憑かれた白人男性がジャングルに行って、えらい目に遭うみたいな映画が、やたら好きなんですよね(笑)。異文化や文明と自然の衝突みたいな主題に惹かれているのかもしれない。

『アンナの出会い』©Chantal Akerman Foundation

宇野:なるほどね。たださ……さっきの話に強引に戻すわけじゃないけど、80年代後半から90年代前半にかけての日本におけるフランス映画事情って、やっぱり結構偏ったものではあったんだよね。要は、渋谷系的受容とBunkamuraル・シネマ的受容ってことなんだけど、前者ではポップカルチャー的関心やファッションの参考になるような60年代から70年代までのフランス映画が愛でられてて、後者では観光映画的な関心から同時代のフランス映画が愛でられててっていう。当時、フレンチポップの中古レコードとかをディグってて明確にハズレなのは70年代後半のディスコブーム以降のレコードだったんだけど、まさにその時代に重要な映画を撮っていたのがアケルマンだったっていう。

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森:まあ、アケルマンの映画は、いわゆる「オシャレな映画」からは遠いですもんね。当時の消費傾向にまったくそぐわなかったというのは、当然よくわかるんですよ。

宇野:そう。少なくとも自分の周りでは、当時みんな関心があったのはシャンタルはシャンタルでもアケルマンじゃなくてシャンタル・ゴヤだった(笑)。だから、今みたいにアケルマンの映画が日本でも「オシャレ」みたいなフィルターなしにちゃんと受容されているのは、明らかに文化の成熟ですよ。

森:シャンタル・ゴヤは、ゴダールの『男性・女性』(1966年)に出てますからね(笑)。かつての日本のローカルな文化現象の特殊性というのも、もちろん面白かったんだけど、むしろ今は、ニュートラルな意味でようやく世界水準に追いついてきたということかもしれません。

宇野:90年代までのミニシアターブームっていうのは、ある種のファンタジーとしてフランス映画を消費していたところがあったんだと思う。でも、アケルマンは、そこがリアリズムだったから、当時の日本における映画の受容の仕方では、ちょっと難しかったところがあったっていう。今日の対談前に「アケルマン」でSNS検索してみたら、「アケルマンが配信で観られるなんて!」って盛り上がっている人が結構いて。いくら全国を回っていると言っても、当然、上映会に来れる人ばかりではないわけで……そういう意味でも、今このタイミングで、アケルマンの映画を配信で観ることができるのは、すごく意味があることだと思います。

>>【ラインナップをチェックする】

■配信情報
『私、あなた、彼、彼女』
『アンナの出会い』
『囚われの女』
『オルメイヤーの阿房宮』
ザ・シネマメンバーズにて配信中
ザ・シネマメンバーズ公式サイト:https://members.thecinema.jp/

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