宇野維正×森直人が振り返る、ハル・ハートリー監督の功績 愛され続ける独自の存在感

宇野維正×森直人がハル・ハートリーを語る

 セレクトされた良質な作品だけを配信する、ミニシアター系のサブスク、【ザ・シネマメンバーズ】。3月はハル・ハートリー監督のエッセンシャルな6作品がラインナップ。今回の配信を機に、映画・音楽ジャーナリストの宇野維正、映画ライターの森直人が、ハル・ハートリー監督の功績を改めて振り返った。

「圧倒的に普通の20代の映画」

『シンプルメン』(c)Possible Films, LLC

宇野維正(以下、宇野):これまで森さんと一緒に語ってきた、ヴィム・ヴェンダースやウォン・カーウァイ、エリック・ロメールとかに比べると、ちょっと知名度は落ちるのかもしれないけど……というか、そもそも今の若い人たちは、ハル・ハートリーの映画に、どれぐらい馴染みがあるんだろう?

森直人(以下、森):まあ、そんなに馴染みはないかもしれないですよね。ただ、僕らの世代というか、今、アラフィフぐらいになっている映画好きは、多くの人がリアルタイムで通っている映画監督のひとりじゃないかな、ハル・ハートリーって。

宇野:そうだね。

――なので、ちょっと当時の状況から整理しますね。ハル・ハートリー監督の映画が、初めてちゃんと日本に紹介されたのは1992年――この年の12月に、日比谷シャンテシネ(現・TOHOシネマズ シャンテ)で『シンプルメン』(1992年)が公開。その好評を受けて、翌1993年の1月に、その前作である『トラスト・ミー』(1990年)が同館で公開。こちらも好評を博するなど、ハートリーの名前は、日本の映画ファンのあいだでも、よく知られるようになりました。

宇野:だから、そもそものところで、自分たちの世代の話をすると……まあ、自分たちが大学生の頃だったわけじゃないですか。そもそも時間がいっぱいあったし、映画も死ぬほど観ている頃だったっていう。で、その頃のアメリカのインディーズ映画の中でーージャームッシュとかスパイク・リーとかはいたけれど、すごい普通の若者が主人公の映画って、実はあんまりなかったような気がするんだよね。

森:確かに、そうだったかもしれない。

宇野:アメリカのちょっと郊外で暮らす普通の若者たち……それこそ、当時の日本の若者と大して変わらないライフスタイルの若者が出てくるハートリーの映画って、当時の大学生としては共感しかなかったというか、そういう意味で、ハマって当然みたいな感じがあったんだよね。

森:そう。そこはやっぱり、すごく重要なポイントだったと僕も思っていて。思い返せば、80年代のニューヨークのインディーズ映画って、ジャームッシュがその筆頭だったと思うけど、彼はもともとオハイオ州の生まれで、そのあとニューヨークに出てきた人じゃないですか。でも、ハートリーは、ロングアイランドの生まれで、初期の3作――『アンビリーバブル・トゥルース』(1989年)、『トラスト・ミー』、『シンプルメン』の3作は、のちに「ロングアイランド・トリロジー」としてボックスセットになっているように、全部彼の地元であるロングアイランドで撮っているんですよね。つまり、「都市」というよりも「郊外」が舞台になっている映画だった。だから、ジャームッシュに代表されるような、「都市」を舞台として、ややハイブロウな感じのする80年代ニューヨーク・インディーズのテイストとは、描かれる生活環境や階層的な意味ではまた別の位相だったんですよね。

宇野:そうそう、全然違うんだよ。

森:だから、リアルタイムの感覚としては、ニューヨーク・インディーズの最終ランナーとして出てきたのがハートリーという感じだったんですけど、今から思えば、そことはちょっと違ったというか、ある種、浮いた存在だったのかなっていう風にも思っていて。

『トラスト・ミー』(c)Possible Films, LLC

――そもそも、ロングアイランドは、ニューヨーク州ではあるけど、マンハッタンからは、ちょっと距離があるというか……いわゆる「都会」ではないですよね。

森:ニューヨークシティーとステートの端っこではもう世界が違う(笑)。実際彼が育ったのはサフォーク郡で、ホント郊外の何も無いような町だったみたいなんですよね。だから、そういう意味では、さっき宇野さんが言ったように、「郊外都市の映画」というか、「地方都市の映画」に近い感じがある。特に初期の3作には、そういう感じがありますよね。

宇野:だからやっぱり、圧倒的に普通の20代の映画なんだよね。そういう意味での入りやすさがある。あと、『シンプルメン』で当時みんながハマったのは、ソニック・ユースの曲に乗せて、男女3人が突然踊り出すっていうあのシーン。

>>「ザ・シネマメンバーズで『シンプルメン』を観る」

『シンプルメン』(c)Possible Films, LLC

――要は、ゴダールの『はなればなれに』(1964年)の、90年代的なオマージュだったわけじゃないですか。当時の映画好きの大学生が、いちばん好きそうなやつっていう(笑)。

森:もう、映画好きの大学生殺しですよ(笑)。「Kool Thing」が収録されたソニック・ユースの『Goo』(1990年)もオルタナロックのアイコニックな必聴盤としてめちゃくちゃ流行ってましたから。でも、ゴダールの『はなればなれに』が、日本でちゃんと公開されたのって、2001年とかだったじゃないですか。だから僕もそうだけど、元ネタよりも最初にこっちを観たっていう人も、結構多かったんじゃないかな。

宇野:『はなればなれに』をオマージュしたっていう話自体は、『シンプルメン』の公開時から盛んに言われていたよね。あと、タランティーノが自分で作った映画製作会社の名前が、『はなればなれに』の原題である「A BAND APART」だったりするじゃないですか。その設立が1991年だから、何かそういうムードみたいなものが、当時のアメリカの若いインディー系の監督たちのあいだにあったのかもしれない。ある種の聖典としてのゴダール、その中でも『はなればなれに』が人気だったっていう。

森:そうかもしれない。『はなればなれに』ってゴダール自身は、あまり気に入っている作品ではなかったみたいだけど、本人の満足度とは別に、後続世代の感性に刺さるカルト作として再評価的に発見された一本と言えるでしょうね。そこで、東海岸のハートリーと西海岸のタランティーノの名前が並ぶのは、ちょっと面白いですけど(笑)。監督としてのテイストは、だいぶ違うと思うので。でも、ハートリーが1959年生まれで、タランティーノが1963年生まれだから、世代的に近いと言えば近いのか……。

宇野:なるほどね。ちょっと個人的な昔話をさせてもらうと、1992年に『シンプルメン』を観て「おっ!」ってなったあと、たまたまパリに長期滞在する機会があって。で、パリに行ったら、シネマテークでちょうどハートリーのレトロスペクティブをやってたんですよ。だから俺は『アンビリーバブル・トゥルース』も『トラスト・ミー』も、実はそこで最初に観たんだよね。

『トラスト・ミー』(c)Possible Films, LLC

――というか、『アンビリーバブル・トゥルース』は、2014年まで、日本ではちゃんと公開されなかったんですよね。

森:あ、それに関して、僕も個人的な昔話を思い出しました。『アンビリーバブル・トゥルース』って、実は『ニューヨーク・ラブストーリー』という邦題で、1991年にVHSソフトが出ているんですよ。厳密に言うと、それが実は、ハートリーの日本初紹介だったっていう。当時は誰も気づいてなかったけど(笑)。

宇野:あ、そうだったかも。劇場未公開のまま、実はビデオで出てたっていう。

森:僕も、『シンプルメン』と『トラスト・ミー』を観て、ハートリーにハマったんですけど、当時僕は、レンタルビデオ店でアルバイトをしていたんですよね。で、なんとなく店で探してみたら、「あ、『ニューヨーク・ラブストーリー』っていう題名で、もう出てるじゃん!」って思って(笑)。

宇野:(笑)。なんか、田村正和とか岸本加世子とかが出てきそうな邦題だけど。

森:確かに(笑)。というか、多分ドラマ『ニューヨーク恋物語』(フジテレビ系/1988年)が流行っていたタイミングで、それが出たんじゃないかな……。

宇野:でもさ、さっきの話じゃないけど、言うほどニューヨークじゃないじゃん、ハートリーの映画って。「ニューヨークってタイトルについているけど、マンハッタンは出てこないんかい!」っていう(笑)。で、ちょっとさっきの話の続きをさせてもらうと……そのパリでやっていたハートリーのレトロスペクティブが、結構盛況だったんですよ。だから多分、フランスの映画好きのあいだでも、ゴダールをオマージュしているアメリカのインディー監督がいるぞみたいな感じで、当時結構盛り上がってたんだよね。

森:あ、そうだったんですね。というか、それで言ったら、ハートリーの『愛・アマチュア』(1994年)に、イザベル・ユペールが出ていましたよね。

宇野:そうそう。フランスでの人気を受けて、『愛・アマチュア』にユペールが出演してフランスの資本が入り、日本での人気を受けて、『FLIRT/フラート』(1995年)に永瀬正敏が出演して日本の資本が入るっていう。何かどっかで聞いたような感じの流れだけど(笑)。でもまあ、インディーズの作家っていうのは、そうやっていろんな国の資本を入れて、自分の作品を作り続けていくしかないわけで。

森:まあ、お金との戦いですからね……。

宇野:ただ、ハートリーについて考えたときに、これはひとつの仮説ではあるんだけど、やっぱり1999年の大波を超えられなかったんだろうなっていうのが、個人的な認識としてはあって……。

――どういうことでしょう?

宇野:1999年っていうのは、映画のビンテージ・イヤーと言われていて、あの年に、次の時代を切り開くような傑作が、たくさん出てきたんですよ。

森:1999年って、どういう映画がありましたっけ?

宇野:これは、結構有名な話というか、『Best.Movie.Year.Ever. :How 1999 Blew Up the Big Screen(原題)』という本も出ているくらいで。ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』、デヴィッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』、ソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』、スパイク・ジョーンズの『マルコヴィッチの穴』、M・ナイト・シャマランの『シックス・センス』……とにかく、インディー出身の監督たちが続々と出てきて、その後20年の映画を変えるような重要作を次々と出してきたのが1999年だったっていう。

森:そうか、日本公開はともかく、みんな1999年の製作になるのか。確かに、それはすごいですね。今でも第一線で活躍している監督ばっかりじゃないですか。

宇野:そうそう。やっぱりみんな、20世紀から21世紀へと時代が変わっていく中で……ちなみにタランティーノはその年、映画を作ってなくて、『ジャッキー・ブラウン』(1997年)と『キル・ビル Vol.1』(2003年)のあいだの時期になるのかな? 1999年を境に映画が大きく変わっていったんだけど、ハートリーは、その大波に乗れなかったというか、90年代に置き去りにされたような感じが、やっぱりちょっとあると俺は思っていて……。

『ヘンリー・フール』(c)Possible Films, LLC

――『ヘンリー・フール』(1997年)の日本公開が1999年の11月で……ちなみにシネヴィヴァン六本木の閉館記念作品だったようですが、その後ハートリーの名前は、しばらく見なくなったような気がします。

宇野:その頃はもうとっくにシネヴィヴァン六本木辞めてて、ちょっと行きづらくて劇場には行かなかった記憶が(苦笑)。

森:でも、確かに、宇野さんの言う通りかもしれない。「1999年の映画」たちのような、21世紀のメジャー最前線に接続していくパワーってことに関しては、実際ハートリーは持ち合わせていなかった気はする。ただ一方で、僕は『ヘンリー・フール』という映画は、のちにその続編を作ることになる――『フェイ・グリム』(2006年)、『ネッド・ライフル』(2014年)と合わせて「ヘンリー・フール・トリロジー」と呼ばれる作品を撮ることになるぐらい、ハートリー個人の流れにとっては、ひとつ大きい映画だったと思っていて。『ヘンリー・フール』でハートリーは、初期のすごくナイーブで、ちょっとスタイルの自意識過剰みたいなところがある作風から、結構正統派のストーリーテラーになっているんですよね。

宇野:なるほど。そういうふうには言えるかもしれないね。

森:『ヘンリー・フール』って、すごく古典的な作りの物語じゃないですか。ゴミ収集人をやっていたサイモン・グリムっていう人と、ブコウスキーみたいな浮浪者まがいのヘンリー・フールっていう詩人がいて、ヘンリーがサイモンに詩を書くことを勧めるんだけど、一見文学からは程遠いようなサイモンのほうが、実はヘンリーよりも文学的な才能があったというちょっと皮肉な話というか、才能の残酷さみたいな主題も、きれいに描かれていて。今回のラインナップだったら、僕は『ヘンリー・フール』が、いちばん好きなんですよね。『ヘンリー・フール』で、彼の第二期みたいなものが始まったと思っています。実際、カンヌ国際映画祭で、脚本賞を獲っていたりするんですよね。ただ、さっき宇野さんがおっしゃられた、エポックな作品が次々と生み出された1999年の流れからは、むしろ反動的なほどズレていて。というのも、そこで彼は、一気に古典性のほうに傾いていったから。

>>「ザ・シネマメンバーズで『ヘンリー・フール』を観る」

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