『アダムス・ファミリー2』と人種問題 悪趣味キャンプが象徴する地獄への痛快な“反撃”

 1991年に公開され、ヒット作として愛された『アダムス・ファミリー』。ダークユーモアたっぷりに、当時の“一般的”アメリカ人や家庭が良いとするものや幸せに思う明るい物事を、苦虫を噛み潰したように見つめる一方で、墓場で死体を掘り起こしたり、倫理観に欠けることを笑ったり、暗くて不幸なものが大好きなアダムス一家の日常と事件がコメディとして描かれた。1作目がストレートに兄弟をめぐる家族愛を描きつつ、一家が“異色”であることを強調する作風だったのに対し、続編となる『アダムス・ファミリー2』は興味深いことに、観客がよりアダムス一家に感情移入できるよう、彼らの視点で“嫌悪の対象”を見つめるような作品になっている。早い話が、ヤバい一家だったはずの彼らがマトモに思えてくるくらい、もっとヤバいやつらが登場しまくる映画になっているのだ。その大部分を担うのが、サマーキャンプシーンとデビーという本作のヴィランの存在である。

 本作で、ウェンズデー(クリスティーナ・リッチ)とパグズリー(ジミー・ワークマン)はベビーシッターを装った殺人鬼のデビー(ジョーン・キューザック)の思惑でサマーキャンプに追いやられる。彼らがあらゆる地獄を体験するキャンプ場は「キャンプ・チペワ」、そのチペワは別名オブジワ族という先住民の部族の名からきている。これがのちに起こる“革命”の布石となっているわけだが、ここに来るのは恐ろしいくらい皆、絵に描いたような金髪で上流階級出身の白人の子供ばかり。ゴメズ(ラウル・ジュリア)とモーティシア(アンジェリカ・ヒューストン)が2人をキャンプ場に送り届けた際に、他の子供たちの親も登場しているのだが、驚くべきことに悪趣味なアダムス一家よりも悪趣味である。キャンプ費は一人当たり2万ドルで、日本円で約289万もする。その場にいるのは、それが払える家庭であり、それをひけらかすような態度でいるものが多いなか、2人分の4万ドルをポンと出しているアダムスが実は一番リッチなのだ。まさに、能ある鷹は爪を隠す。

 悪趣味は参加者にとどまらない。夫婦でキャンプ責任者をしているゲイリー(ピーター・マクニコル)とベッキー(クリスティーン・バランスキー)は聞き分けが良い子に限らず、容姿が優れている子供をお気に入りにする。そこにあるのは同調圧力と、それに反するものに対するいじめであり、これまた絵に描いたようなアマンダといういじめっ子の女の子も漏れなく登場する。学生時代、あのアマンダのような女や、その取り巻きガールズとやりあってきた筆者としては、彼女の存在はあまりにもリアルに感じる。彼らは自分達と“違う”アダムスの2人を最初から除け者にするが、実は他にもアジア系、インド系、黒人、太っちょ、車椅子など、彼らが……というより当時の社会がイメージとして打ち出したマジョリティではない者たち、すなわちマイノリティとされる子供が複数いる。

 いわゆる“陽キャ”と“隠キャ”が完全に区分され、カーストが決められる地獄のような夏のラストを飾るのは、さらに炎上待ったなしの「劇」だ。毎年アメリカの歴史上の大きな出来事を描くという劇の今年のテーマに「感謝祭」が選ばれる。ここで、白人のアマンダが主役に、その取り巻きがいい役をえる一方で反乱分子のウェンズデーはポカホンタス役を、パグズリーに至っては七面鳥の役を押し付けられた。先に述べたマイノリティの子供たちは先住民を、マジョリティとなる白人の子たちは開拓者の役をもらう。

 2022年に観るには、あまりにも刺激的な内容のこの劇だが、『アダムス・ファミリー』というシリーズが人種的な問題を皮肉に扱うことは、これが初めてではない。本作では他にも、ウェンズデーとパグズリーが赤ちゃんのピューバートをマリー・アントワネットに見立ててギロチン処刑をしようとするシーンでフランス国歌を流したり、デビーがフェスター(クリストファー・ロイド)と初めて出会った時に「ヨーロッパの香りがした」と褒めるものの、フェスターはそれを「本当に? 風呂入ったのに……」と返したり、フランスをはじめこれまでも全方面から怒られそうなブラックジョークに富んでいる。

 遡ること1964年に放送されていたテレビドラマ『アダムズのお化け一家』の方が、映画版よりもこの手の演出は多かったと言ってもいいだろう。元々、アダムスを典型的ではない家族として描くために、彼らの家にはエキゾチックな置物が意図的に多く置かれた。それと同時に、ゴメズやモーティシアがアフリカやアジアの文化に精通している描写も取り入れられていたのである(1991年の映画には、中国のフィンガートラップの置物が登場していた)。ちなみに、家長のゴメズはラテン系で(演じたジュリアはプエルトリコ出身)、モーティシアに関しては「魔女」ともはや人間ではない。そんな彼らと対なる存在として描かれたのが、当時の60年代のテレビが映していた女優や俳優、特にコマーシャルで提示された“一般的なアメリカ人”(桃色のチークにブルーのドレスを身に纏った、金髪の白人)である。アダムス家を訪れる、この“一般的なアメリカ人”はアフリカ系のオブジェを怖がり、戸惑い、屋敷の中を恐る恐る歩く。そして大概が、「用事を思い出した」とか言ってその場から逃げるのだ。

 実際モーティシアが日本文化にこって、三味線を披露する回だってあったわけだが、これらの描写は良くも悪くも機能している。アダムスが当時の“一般的なアメリカ人”よりも異文化や外国人に抵抗感もなければ、それを日常として捉える姿勢はとても良い。しかし、同時にそれを客人が「怖がる」描写まで漏れなくセットにしてしまうことで、「それを恐れることは普通のリアクションである」と、異文化への恐怖を肯定してしまってもいるのだ。そして、アダムスが変わり者であることを表現するために、それらを使うこともやはり異文化や外国人を「異質」として扱ったままにしている。そのため、描写を全体的にみると「良い」も「悪い」もどっちもどっちで複雑な形になってしまっているのだ。

関連記事