普通ではなく自分であれ ダークユーモアで『アダムス・ファミリー』が肯定し、描くもの
『アダムス・ファミリー』を観たことはなくても、あの有名なフィンガースナップでお馴染みのテーマ曲を一度は耳にしたことがある、という方は多いのではないだろうか。90’sベイビーにとっては懐かしのホラーコメディである本作が、なんと1999年以来、奇跡の地上波放送される。
本作はつい最近、2019年にアニメ映画としてリブートされたこともあり、タイトル自体の知名度は現代でも高いはず。2022年にはアニメ映画『アダムス・ファミリー2 アメリカ横断旅行』も公開され、来たる10月にはNetflixが手がける新シリーズ『ウェンズデー』が配信される。ハロウィンでのコスプレでもお馴染みで、まさに令和でもあの異端一家が現代に復活を遂げたわけだが、彼らは通底して“普通”ではなく“自分”でいることを肯定してくれる。
日本で生まれ育ち、父親が外国人の筆者にとって幼少期、周りの家族と自分の家族の日常に少し違いがあることに気づいた。というより、違うと指をさされた方が正しいだろう。そんな中で、子供心ながらに“違う”ことを気にしていた自分にとっても、『アダムス・ファミリー』という作品は「周囲と違ってもいいこと」を教えてくれた作品だ。そもそも、“普通”という言葉はあまりにも多くの人を苦しめる呪いの言葉だと思う。
アダムス一家は極めてダークだが、実は非常にポジティブなのが良い。早くに亡くなったことが悔やまれるラウル・ジュリア演じる家長のゴメズは、アニメ版と少し違い、よりシュッとしていて快活明朗な性格。ビジネスの才があって(この辺は原作だと兄のフォスターの方がある)誰よりも家族のことを深く愛している。特に奥さんのモーティシアにメロメロ。モーティシアは唯一、はっきりとその存在が「魔女」であることが公式設定で発表されている。ドラマ版では、彼女の葬儀でゴメズと出会い、結ばれた。時々フランス語を話したり、エロティックな言葉をかけたりしてゴメズの熱をあげるのだ。この二人のやりとりは映画の中でも絶えず登場し、わたしたちの笑いを誘う。演じるアンジェリカ・ヒューストンはオスカー女優であり、『ジョン・ウィック:パラベラム』やドラマ『SMASH/スマッシュ』への出演が記憶に新しい。
そして、本作の立役者と言っても過言ではないのがクリスティーナ・リッチ演じるウェンズデー。もともとドラマ版ではウェンズデーとパグズリーが全然登場しないのだが、映画版ではリッチが同時期の映画『ハード・ウェイ』で人気を博していた子役だったこともあり、かなりスポットライトが当てられている。しかも、リッチは劇中で見せる好演のみならず裏でも本作を成功させた。本来、この映画のラストはゴードンが本当のフェスターなのか、フェスターのフリをしているのか曖昧なままだった。しかし、リッチが「ちゃんとしたハッピーエンドであるべき!」と意見したので、その正体がしっかり言及されるエンディングになったのである。
本作の魅力は、やはり小気味よいジョークの数々だろう。モーティシアとゴメズのやりとりなど、冒頭からブラックユーモア満載な返しが面白く、ツッコミが追いつかないくらい劇中で細かい応酬が続く。太陽が嫌いだったり、不幸でいることが最高に幸せだったり、逆境にむしろ興奮したり。“普通”の反応とはむしろ真逆をいく彼らは、もはやその辺の並の人たちより明るい。
しかし、蓋を開けてみれば、彼らも普遍的な恐怖……大切な家族を失う恐れを抱いているのがわかる。何だかんだ映画の物語も、行方不明だった家族の一員、フェスターを見つけようとする物語に終始しているのがその証拠だ。そして、フェスターに扮してゴメズ家に潜入したゴードンはいわゆる“毒親”の元で育てられ、母親から日常的に暴力やひどい言葉を浴びせられる。そんな彼だからこそ、最初は「こいつらヤバい」と一刻も早く金を盗んで逃げようとしていたものの、アダムス一家が実はとても互いに愛情深い家族であることに気づき始め、自分にもその愛情が向けられた時の心地よさから、彼らのことが大好きになる。このゴードンの精神的成長の背景に見る「自らが家族を選択すること」への肯定や、家族の定義というものは本作の大きなテーマとも言えるだろう。多くの人が明るくハッピーなものが好きで、自分がそうではなくても別に良い。“普通”ではなく、“自分”を選び取ったアダムス一家の面々の豊かで幸せそうな姿が、私たちに大切なことを教えてくれる。