菊地成孔の『張込み』評(前編):始発から乗車せよ~逆に昭和を忘れるために~

野村芳太郎監督『張込み』(1958年/松竹)(前編)

 2年前が「生誕100年」、今年が「没後30年」と、まあ、普通だったら<いくら何でもやりすぎでしょ>と評価されても仕方がない松本清張フェアだけれども、筆者の正直な実感としては、まだまだ全然やりすぎではない。もっと清張を、もっと清張を喰わせろ、もっともっと喰わせろ。という食欲がおさまらない。

 それは<昭和>と<令和>の、あまりにも大きすぎる違い、そこから生じる、自らの凄まじい空腹感に恐怖さえ感じる時間でもある。松本清張は、随分と久しく喰っていなかった「昭和」という時代の国民食で、昭和を生きた人間は誰もがバクバク喰っていたが、もう二度と作られることはない。国民食であるが故、好きな者はいうまでもなく、好きでもない者、嫌いな者までもがバクバク貪り食った。

 現在、太宰治の代替食も、芥川龍之介の代替食も、三島由紀夫の代替食も、石原慎太郎の代替食も、川端康成の代替食も、まあ、誰の何がどれだとは言わないが、あると言えばある。

 あるいは、例えば村上春樹である。イヌイットがアザラシを生食でしか喰わず、内臓から筋肉から皮下脂肪、あらゆる腱、全身をくまなく、そして驚くほど大量に喰らうことで、我々が植物や海産物などから摂る、あらゆる栄養素を摂っているように、村上春樹だけを、大量に、日常的に、驚くほど喰らっていれば、あらゆる栄養素は摂れる。

 しかしだ、村上春樹をどれだけ喰っても、松本清張を喰ったことにはならない。松本清張の代替食はないのだ。ここに、ある時代の国民食として君臨し、今では若い者は誰も入らない老舗の天丼やトンカツ屋のような、松本清張の凄みがある。と、ここまではまだ小説の話だ。

 しかしこれは映画評で、しかも、駄洒落は知っての野暮だが、松本清張の<正調>、つまりオーセンティックを解体してしまうような行為になる。松本清張を読み漁った者も、全く読んだことがない者も、その<正調>を知っている。

 しかし本作は、小説としても映画としても、まだ後の清張イズムが確立される前の、しかもたった一つの<起点>ーーー本作をこよなく純愛する鉄ヲタの邦画マニアに無条件の敬意を表し(実際、本稿は、他のあらゆる資料よりも、「鉄ヲタ邦画マニア」の夥しいブログを参考文献としている。どちらかといえば飛行機/空港派で、鉄道/駅の文化に疎い筆者にとって、彼らの熱量と敬虔さは平伏すに吝かでなかった。本作は、高い可能性で、「時刻表と鉄道トリック」をメインにした「点と線」を遥かに超え、<鉄ヲタが愛する邦画オールタイムベスト>の1位に座する名作であると断言しても異論は出ないであろう)、<始発>と呼んでもいいーーーであり、巷間よく聞く「処女作に全てがある」という俗説を覆す、<始発>にして<唯一>の<異色作>であるからだ。

 松本清張、<初の推理小説>は、人間のありとあらゆるドス黒い暗部や、呆然と立ち尽くす以外、何もできないような巨悪の存在によって、我々の恐怖と絶望と欲望に地獄の業火を放つ、後の巨大なオーセンティックとは全く違う。少なくとも代表作としては完全に異質なものだ。

 俗世から大きく隔離された、しかし俗にまみれた世界に住む、悪徳政治家も、過去の罪に怯える世界的作曲家も、セックスの世話をさせるために次々と女性をハントして巨大な家屋に幽閉する巨悪の大物も、巨大病院の、道を踏み外した医師も登場しない。

 登場人物は、主要人物が4名、コメディリリーフの脇役まで入れても10名に満たず、そして作中では一切の「事件」は起こらない(物語のきっかけとなる「過去の事件」は存在するが)。

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