菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(中編):映画が「ジャンル」自体をチェンジしてしまう時に発生する「怖さ」の質と量

菊地成孔『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評中編

『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(中編)/映画が「ジャンル」自体をチェンジしてしまう時、そこに発生する「怖さ」の質と量について

はめられた観客の主観

 この記事には前編があるので、ここからお読みいただく方はそちらから先にお読みいただきたい。

 本作はこうして、「考えさせられる((c)Netflix)人間ドラマ」として、文芸作の面構えが鉄壁のまま進んでゆくが、前編にある通り、そもそも冒頭から伏線は張られており、さらに注意すれば、伏線は各所に張り巡らされている。

 しかし、どうしてもミスリードされてしまう。正直筆者は、「これってジェーン・カンピオンの天然?」と、現在でも20%ほど思っている。本作を、ジェーン<ピアノ・レッスン>カンピオンは、「異様な美貌と異様な性愛がおぞましい殺人に至る、異形の人間ドラマ」として、エンタメ、ましてや「ジャンルが変わってしまう」という大仕掛けのつもりはなく、(まるで『ピアノ・レッスン』のように)制作したのかもしれない。ここに本作の、ストーリー表面ではなく、観客の心の裏側に張り付き、深い感動と結びついてゆく「怖さ」が凝縮されている。

 つまり、もしそうだとしたら、シンプルな話、そっちの方が凄い。この点に関して、筆者は読者全員個々人の判断に委ねるしかないが、いずれにせよ「ジャンルごと変わってしまう、という大仕掛け」が、周到な計算と、(撮影/録音から編集までの大仕事の間に一瞬の手を抜けない)、高いハンドリングテクニックを必要とすることは言うまでもない。

 それは<『シン・ゴジラ』をこの手法で『シン・シンゴジラ』としてリメイクし、作品の中盤でゴジラがあっさりと死んでしまい、後半はゴジラも何もない、都政に関する内部の暗躍や、国政や巨悪に対する闘いを描くポリティカル・サスペンス映画に転じる>という企画が通り、制作されるとする。その際に必要となる努力である。本作において、こうした努力は、何のために、どうやって行われてきたのだろうか? 筆者は、逆説的に80%は周到な計算とハンドリングの結果だと思っている。そして何より本作は、2022年米国アカデミー賞の主要部門のほとんどで「本命」と目されているのだ。

あまりにも有名な例と、比較的無名な例を1つずつ挙げる。前者を成功例、後者を失敗例とする

 この大仕掛け、大歌舞伎を、もうニヤニヤしているのが見えてくるほど計画的に実行=成功させた歴史的な代表作にアルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』がある。『サイコ』は、「ネタバレ」を現実的に禁じた最初の映画である(ヒッチコックは、本編を使わない遠回しな予告編を制作し、試写の後には徹底的な緘口令を敷き、さらに、上映する全映画館に、途中入館者を入館させず、次回の上映まで待たせるという措置をとった)。

 そもそもタイトルが「サイコ(精神異常者、程度の意味→1960年当時)」なので、いわば看板に思いっきり伏線が張られている。しかし、ジャネット・リー演じる不動産屋の事務員が、横領を実行して逃走する、冒頭から1/3までの流れが、<美女が犯人のクライムサスペンス>として完璧すぎ、観客はタイトルもへったくれもなくなり、固唾を飲んで作品に誘導される。

 ところが、犯人である女性は、逃走して最初の宿でシャワーを浴びている間に、あっさりと(そして、歴史にその名を残す、当時の映画コードぎりぎりの残虐さとリアルを織り交ぜた)ナイフスラッシングによって惨殺される。ヒッチコックが「途中入館」を禁じたのは、このシーン以降から観た観客が、ポスター等々で「主演」と記された人気女優ジャネット・リーが一切(回想にも)登場しないことで、異議を唱えるリスクをヘッジするため、とも言われるが、そういう瑣末な問題ではない。

 観客全員が、自分の正気を疑うほどのショックを経験する。それは、<ある映画が、予告なく、全く別の映画になる>という、とてつもない事実の、見事な成立によってもたらされるのであるのであって、いくつかの素晴らしいショックシーンによってのみでは、もたらされないリージョンにある。

 後に幾千のパロディを生む、映画史上屈指の名シーンのクオリティは、それ自体が独立した強度(有名な、バーナード・ハーマンのーーそのクオリティの高さから、後にヒッチコックとの、決別までもたらすことになるーー恐怖サウンド効果も併せ)を持つとはいえ、このシーン単体でのショックのみでは、「自分が一瞬、正気を失ったかも知れない」というほどの独自に不条理的なショックは生じ得ない。ヒッチコックはサスペン映画の天才として、「独立した物凄いショックシーン」を山ほど残してきた。しかし、観客は正気を失わないまま、安心してショックに身を委ねられるのである。

 横領事件を扱ったクライムサスペンス映画は、歴史に残る刺殺シーン(このシーンには、女性主人公の放尿、全裸で複数回刺されて刺殺される、死体の目が開いている、等々「映画史上初めての描写」が複数含まれる)を継ぎ目に、ある意味シームレスに、精神異常者の映画になる。そして、このシーンを頂点に、観客が受けたショックは、「今、にわかには信じ難いことではあるけれども、どうやら、この映画はジャンル自体が変わリ、別の映画になったようだ」という暫時的リセット認識ーーそれは個々人の速度差が大きいーーによって、徐々に緩衝されながらも、同時に別リージョンのショックがぐんぐん再上昇し、一度緩衝された根源的なショックとの相乗効果によって、「格調が高い」と表現してもいいほどの不条理感と恐怖を観客に与える。

 あまり語られないポイントだが、『サイコ』のラストシーンは法廷であって、そこでは、現代でさえ問題視される「精神異常者の犯罪が免責されるかどうか?」という議論を含む、精神分析医による精神鑑定の内容説明を経て、最後は、物的証拠である、ジャネット・リーの車が、鑑識官らの手によって、投棄された沼から引きずり上げられるショットで終わる。とっくに打ち捨てられた前半の亡霊が、今さらながら現れる、この「全くスッキリしない整理運動/チルアウト効果」は、映画市場、唯一無二のものだ。

 病的に母親に依存していた息子が、母の死を受け入れることができず、死体をミイラ状になるまで保存し、自分が母親の自我(と肉体)と同一化する。という定番的な病理のあり方とはいえ、発表当時はかなりスキャンダラスだった(この古典的とも言えるサステインは本作『パワー・オブ・ザ・ドッグ』にまで及んでいるとも言える。母の狂愛と息子の狂愛の、全く噛み合わない噛み合わせである)。

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