菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(後編):ジェーン・カンピオンは「過剰な男性性」を裁いただけなのか?

菊地成孔『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評後編

『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(後編)/唯一オスカーを受賞したジェーン・カンピオンは「過剰な男性性」を裁いただけなのか?

前編:菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(前編):絵に描いたように<古くて新しい>傑作
中編:菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(中編):映画が「ジャンル」自体をチェンジしてしまう時に発生する「怖さ」の質と量

ウィル・スミスの松の廊下とウクライナ戦争

 現在(4月3日)、米国アカデミー賞の授賞式も終わり、ウィル・スミスの松の廊下も(多くのメディアがあのクリス・ロックを「黒人コメディアン」「(単に)コメディアン」としているのはかなり遺憾に思うが、まあ仕方ない)、『ドライブ・マイ・カー』が国際長編映画賞(元・「外国語映画賞」)しか受賞しなかったことも(多くのメディアが、このタイトルがザ・ビートルズの曲名ー「ノルウェーの森」と同様ーであることに、ほとんど触れないのは若干に遺憾に思うが、まあまあ仕方がない)、筆者にとってさしたる問題ではない。

 しかし、多くのメディアが、本作を「過剰な男性性によって他者を傷つける者が裁かれる」という総括に留まるのは、「アホかw」と呆然するほど遺憾に思うし、こればかりは、まあまあまあ仕方がない、とは言えない。

 前提として、筆者は、この世に「過剰な男性性=オーヴァーポテンシャル(以下、「ポテンシャル」)が人を傷つけ、裁かれる映画」があっても全く構わないし、フェミニズムの立場からもリベラリズムの立場からも「過剰な男性性は問答無用で絶対的に有害である」という極論=ポテンツ狩りが出たとしても、よくある偏向的極論として同意しないだけで、極論を言ってはいけないとも全く思わない。

 言うまでもないが、男性性としての過剰なポテンシャルには当然、有益性も有害性もある。というか、全ての「過剰さ」は、それが何性の何であれ、有益性と有害性は共有されるに決まっている。

 それこそウィル・スミス念願の主演男優賞受賞作で彼が演じた人物は、狂気に近いポテンシャルが、ギリギリで、途轍もない有益性をもたらす。

 そしてそれは、BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アワードのファンであれば、愛さずにはいられないクリス・ロックを張り倒した根拠と結果に、全く同様である。

 映画批評界は「男たるもの、侮辱されたら殴って良い」とし、が故に『ドリームプラン』は良き映画だ。とするのだろうか? それとも「男性であろうとなかろうと、侮辱されたからといって他者を殴ってはいけない」とし、が故に『ドリームプラン』は悪しき映画だ。とするのだろうか? おそらくどちらでもない。「映画それ自体と俳優の個人的な振る舞いは無関係」とするだろう。

 しかし、これは詐術や虚偽だとは言わないが、傍観者効果程度の見て見ぬふりの域を出ない。殺人を部分的にでも肯定する傑作映画の主演俳優がアカデミー賞主演男優賞を受賞した上に、プライヴェートで殺人を犯してもまだ同じ立論で突破できるだろうか? それは「ゼレンスキーが俳優/コメディアンであり、ましてや<コメディアンが大統領になってしまうTV番組>のヒットにより、実際に大統領になった」というプロファイリングを、この戦争での彼の振る舞いと<全く無関係である>と断ずる」と同じ、とは言わないが、近い立論であろう。様々な顔があるウクライナ戦争だが、「老いたる軍人/諜報部員」と「絶頂期の俳優」の闘争、という側面は、日々、露わになっていると思う。

 それはさておき、主要賞に多数ノミネイトされながらも、監督賞のみの受賞に留まった(よくあるパターン)本作は、「過剰な男性性は女性等々の弱者を激しく傷つけ易いので、そんなことする奴は死ねば良いし、こうして実際に殺されてしまう(まあ、気の毒な側面もないではないが)」という、シンプルヘッド過ぎるテーマを、「傷つけられる側」の主要なセクトである「女性」監督が、そのまんま描いた、一種の勧善懲悪作品だとしたら、それは怨念の連鎖による性的興奮の只中にいるだけの、(まるでポルノ映画のような)ベッタベタなエモ熱作であって、本作のように、見るものを「考えさせ」たり、驚かせたり、奇妙が故に鈍く重い感動をもたらせたりしないのではないか?

時間軸に沿って、「どんでん返し」のポイントを査定する

 以下、これはあくまで筆者個人の内面で起きた「どんでん返」された者のリポートである。後述する「最初のパンチ」まで、時系列に忠実に記述する。

<開始マイナス10分>

 前、中編に執着的に書いた通り、筆者と同程度、あるいはそれ以上の映画マニアだとして、本作をある先入観を持たずに観ることはかなり困難だと思われる。

 「10年近く映画界から離れていた(主にテレビ番組を制作してた)、ニュージーランドの女性監督、ジェーン・カンピオンの復帰作が、アメリカを舞台にした西部劇で、高い評価を受け、ノミニーゲッター化している」という情報は、本作を<ピアノ・レッスン×ブロークバック・マウンテン>ではないか?と強くミスリードする。

 それは「ピアノが出てくる/女性が苦しむ/ホモソの代名詞であるカウボーイのゲイ性が新しい視点から見直され、全ての登場人物が、現代的なリベラリズムに沿った倫理的調和を投げかけてくる文芸大作」のことであって「過剰な男性性は女性等々の弱者を激しく傷つけ易いので、そんなことする奴は死ねばいいし、こうして実際に殺されてしまう(まあ、気の毒な側面もないではないが)」映画ではない。

<開始1分30秒ー字幕>

 和太鼓を打つようなNetflixのサウンドロゴに続き、「ニュージーランドフィルム」「BBCフィルム」「see saw」といった、制作の座組み紹介が終わり、オープニングの字幕が始まる。開始と同時に現在、ミカ・レヴィと並び、最も先鋭的な映画音楽家であるジョニー・グリーンウッドの、アコースティックギターが流れてくる。

 それは、極めて反・通俗的なもので、一瞬「マカロニウエスタン調かな?」とも思わせなくもないが、聴けば聴くほど、「妄想の土着性」とでも言うべき、独特のリズムと調性を持った斬新なものだと分かる。ネイティヴアメリカンの呪術だと言われれば信じるかもしれない。

 これはドープな人間ドラマにして、勧善懲悪や予定調和といったエンタメ要素抜きのアート映画だ。先入観が画面すら映っていないギターの4小節で強化される。

 そこにモノローグが被る。「父が死んだ時 僕は母の幸せだけを願った 僕が守らなければ、誰が守る?」

 所謂、マザコン系の物語なのだな。と、とりあえず思うが早いか、ギターのつま弾きは、更に架空の土着性を帯び、「第1章」の掲示とともに字幕が終わる。

 「1925年 モンタナ州」というクレジットが出る。

 一言に「西部劇」「カウボーイ」と言っても、これは絶妙な設定だ。モンタナ州は北西部の州だが、所謂「西部開拓時代」のメインステージとされるフロンティア・ストリップ6州(ノースダコタ、サウスダコタ、ネブラスカ、カンザス、オクラホマ、テキサス)からは外れている。

 先住民人口が多く、有名な「第七騎兵隊のリトルビッグホーンの戦い」「ネズ・パース戦争」の舞台になるなど、騎兵隊と先住民族の戦闘の舞として歴史は有名だが、それらもすでに19世紀中盤の話であり、かつ、繰り返すがこれは先住民族と騎兵隊の戦争であって、「カウボーイカルチャー」としてはメインな土地ではない。有名な興行師バッファロービル・ビルの「ワイルドウエストショー(カウボーイカルチャー、西部開拓カルチャーをサーカス化したもの)」の巡業も19世紀中には形骸化し、ましてや、1925年は「狂乱の20年代」の真っ只中、女性の権利が最初に叫ばれた時代でもある。歴史書などを読む限り、「西部開拓時代=カウボーイの時代」はとうに終わり、キャンピーな象徴としか機能していない。

 そしてそこに、そのことを逆なでするようにして、本作を観た誰もが驚嘆する、おびただしい数の牛が、山肌から、温い溶岩のように溢れ出してくる。

 これは、最盛期をとうに過ぎ、実質を失い、象徴化しつつも、最後の本質を貪るカウボーイカルチャー、ホモソもポテンツも形骸化の恐怖に晒されているが故に、無理目に強化されている、屈折の物語なのだ。観るもの全員を圧倒する牛の群れは、逆説的な断末魔でもあるのだ。先入観は盤石になる。

<開始1分30秒「第1章」>

 ベネディクト・カンバーバッチ演じる、「過剰にカウボーイでありたがる男」フィルが登場し、外景から室内へ。音楽は止まる。フィルがバンジョーの名手であることと、弟がどうやら、「カウボーイ失格」であることを同時に示すために。弟ジョージ(ジェシー・プレモンス演)はバスタブに入っている。もうそれだけでカウボーイ失格なのだ。

 フィルは風呂に入らない(のちに出てくるが、石鹸を使わず全身を泥で洗い、川で入浴する、というキャンプなスタイルを頑なに守っている)。音楽が再開する。奇妙な転調を繰り返し、カントリーともブルースとも全く違う、架空の土着性を湛えながら。

 再び圧倒的な牛の群れ、ギターに弦楽四重奏が加わる。ジョニー・グリーンウッドの出世作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と比べても、全く通俗性がない。ヒンデミットやバルトークがアメリカ音楽化したような響き。

 「炭疽菌」が、現在の生物兵器であるかのようなリージョンにあることが示される。それに侵されて死んだ牛には、触ってもいけないのである(というか、これは炭疽菌を使った生物兵器の歴史をなぞっている)。不吉さ。誰かがこれで死ぬのかもしれない。

 フィルは、情けない弟ジョージに向かって「ブロンコ・ヘンリーのように、赤鹿を撃って、焼いて食おう」という。弟はうんざりする。ブロンコ・ヘンリーはフィルのメンターであろう(のちに暴かれる「秘密」としての「ブロンコ・ヘンリー男性裸体写真集」が、前述の「ワイルドウエストショー=カウボーイカルチャーの戯画的サーカス化。の末裔であるのは言うまでもない)。

 もう、先入観は盤石だ。どれだけ複雑で文学的な人間ドラマが展開するのか。カウボーイの戯画的実行者である兄と、ポテンシャルの低い弟との関係はどうなるのだろう?

 「赤鹿を撃って、焼いて食」わない代わりに、フィルの率いるカウボーイ・チームは食堂に入る。ここから物語が始まる。

 5分10秒。恐怖感すら煽る美貌の、中性的少年ピーター(コディ・スミット=マクフィー演)が、ペーパーフラワーの準備をしている。細かくハサミを入れる。母親ローズ(キルスティン・ダンスト演)が部屋に入ってきたときには、雑誌や新聞や書籍の切り抜きを集めたスクラップブックを見ている。数ページ広げれば、幻想文学的な趣味が分かる。蝶の中心が人間の美女であるイラストは、ぐるっと回って、日本のアニメのようでもある。

 ローズは未亡人だ。こんな美しい息子を愛さないはずがない。息子とてそうであろう。冒頭のモノローグが想起される。そして、ふと気がつくのである。ピーターは字幕で「ママ」と書いてあるシーンでも「ローズ」と呼んでいるのだ。どうなっちゃうんだよこれ。『ブロークバック・マウンテン』超えするかもね。楽しみで仕方がない。

 そしてローズはピーターに言う「鶏を潰しておいてね」息子は、無表情でフライドチキン用の鶏を屠殺に行く。本作は伏線とミスリードが交錯し続ける。最初のミスリードは、およそ商業的ではない(西部劇的ですらない)音楽だ。

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