『ミズ・マーベル』に感じるMCUの新たな息吹 カマラは多くのマイノリティの若者そのもの

『ミズ・マーベル』に感じるMCUの新たな息吹

 イスラム教徒(ムスリム)の女の子が主人公となり、スーパーヒーローとして活躍する、画期的なマーベル・コミック作品『ミズ・マーベル』が、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)のドラマシリーズとして映像化されている。2014年に発表された、新しい原作のシリーズだけあって、これまでのMCU作品のなかでも、とくに新たな息吹を感じられる内容だ。

 ここでは、現在配信されている第3話までで明らかとなっている展開や設定などから、その魅力や注目できるポイントを考えていきたい。

 本シリーズ『ミズ・マーベル』の主人公は、「アメリカの埼玉」と言われることもある、大都市に隣接するニュージャージー州、ジャージーシティに住むムスリムの高校生カマラ・カーン(イマン・ヴェラーニ)。パキスタンから移り住んだ両親を持つカマラは、移民2世としてアメリカでの日常を送っている。学校ではそれほど人気はないようだが、同じく目立たないタイプながら天才的な科学の才能を持つブルーノ(マシュー・リンツ)や、同じくムスリムとして日々の務めを果たしている同級生ナキア(ヤスミーン・フレッチャー)ら仲の良い友人たちに恵まれている。

 カマラの憧れは、彼女の住む世界に実在する「アベンジャーズ」のヒーローたち。そのなかでも最強レベルの女性ヒーロー、「キャプテン・マーベル」は別格で、彼女のようになる空想にしばしば浸っている。そんな夢見がちな高校生の娘に、母親は「現実を見なさい」と注意するのが常だった。

 そんなカマラは、両親に禁じられていた「アベンジャーズコン」(アベンジャーズのファンが集うイベント)にこっそり遊びに行くと、そこで一族に伝わるバングルを装着したことにより未知のスーパーパワーに目覚め、顔を隠した正体不明のヒーローとして人々に知られることとなる。カマラは“身バレ”に注意しながら、夢だったヒーローになるためのトレーニングや、等身大の高校生としてジャージーシティでの青春の日々を過ごしてゆく。

 本シリーズが画期的なのは、やはりムスリムの少女がアメリカでスーパーヒーローとして活躍する設定そのものである。本シリーズが準拠する原作コミックのキャラクターを作り上げたのは、編集者のサナ・アマナット。彼女はカマラと同様、ムスリムのパキスタン系アメリカ人だ。そしてストーリーを担当する小説家G・ウィロー・ウィルソンもまた、イスラム教徒の女性。彼女はムスリムの家庭に生まれたわけではなく、ニュージャージーの無神論者の両親のもとで育ち、自ら様々な宗教を研究したのちにイスラム教を選びとっている。

 さらに、本シリーズの監督ビシャ・K・アリはパキスタン系イギリス人女性で、主演を務めるイマン・ヴェラーニもまたパキスタン系カナダ人である。ヴェラーニは自身が演じるカマラと同じようにヒーローコミックの大ファンであり、まさに自分の環境が描かれた原作コミックに、「自分と同じことでカマラも悩んでいる」と、強い共感を覚えたという。原作コミックやグラフィックノベル、そして本ドラマシリーズで描かれる、パキスタン系女子の生き生きとした物語や表現に活かされているのは、まさにこのようなクリエイター、出演者のパーソナリティに起因しているのである。

 マーベル・スタジオ作品をはじめ、近年のアメリカ映画では、できる限り人種や文化についての当事者が作品を手がけ、これまでに映画にあまり登場しなかった人種がキャスティングされるケースが増えてきている。それは、これまで人種的、性的マイノリティなどが活躍できない場合が多かった事実を踏まえ、差別を是正する配慮の意味がある。

 そのような試みを不自然なものだとして批判する者もいるが、そもそもアメリカ社会において、映画界を含む多くの業界で白人男性が長く優先されてきたことを考えると、むしろその方が不自然な状態だったといえるのではないか。とくにヒーロー映画がこのような不平等に敏感なのは、「正義」をテーマに扱っているからだ。いつまでも現実の不平等にあぐらをかきながら正義を語っているのでは偽善的だと言われても仕方ないだろう。

 礼拝所で祈り(サラート)を捧げたり、断食(ラマダン)明けを祝う祭り(イード)や、パキスタン流の結婚式など、本シリーズはアメリカの都市に住むムスリムの行事や生活を映し出す場面が非常に多い。アメリカの市民であってさえ、このような身の回りに存在する文化や風習をまったく知らない人は少なくないはずである。本作は、アメリカのみならず世界中が注視するドラマのなかで、これまでアメリカの作品でほとんど紹介されてこなかった自国の文化に目を向けさせようとするのである。

 そのために必要なのは、パキスタン文化への作り手側の習熟であろう。当事者が製作にあたるということは、雇用機会の是正についてのみならず、作品の内容に当事者ならではの視点が加わるという利点もある。主人公に近い経験をしていたり、作品世界に近い場所で生きてきた者の経験が、強い説得力を与えることになるのだ。そして、いままでアメリカ映画、ドラマの現場では、当事者は製作の中心を担うのでなく、文化について監修をするアドバイザーなどの役回りにとどまる場合が多かったのである。

 そういった不平等は映画界のみならず、アメリカ社会全体の問題であるといえる。国連などでも継続して指摘されているように、多くの国において移民が安い賃金や厳しい条件で働かされるなど、その国のマジョリティに搾取される傾向にある。本シリーズでも、カマラの母親が若い頃に新天地アメリカにやってきた当初、夫の労働条件があまりにもひどかったことを述懐している。

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