『犬王』に詰まった人間が進化するエネルギーの片鱗 湯浅政明の無限の想像力を垣間見る

『犬王』に詰まったエネルギー

 湯浅政明監督が、日本の室町時代を描いた古川日出男の小説『平家物語 犬王の巻』(河出書房新社)を映像化すると聞いたときは、正直驚いた。もっとイマジネーションを大きく飛躍させられる突飛な企画のほうが向いているのではないかと思ったが、それは杞憂に終わったし、こちらの勝手な先入観による勘違いであることも思い知らされた。

 600年も昔の物語となれば、残っている文献だけでは補えない部分は必ず出てくる。何より主人公である稀代の能楽師・犬王は実在の人物だが、その記録はほとんど現存しておらず、原作の『平家物語 犬王の巻』はそこからイメージを膨らませて書かれている。その余白を、さらにアニメーションとしてとことん膨らませた作品が『犬王』なのだ。それこそ想像力を無限にはたらかせる以外にない。

 脚本を手掛けるのが野木亜紀子という人選も、また意外かつ新鮮だった。我々は多くの映画やドラマでその卓抜した手腕をすでに知っている。特に、原作ありきの企画において「外せない」エッセンスを的確に抽出し、映像作品のシナリオとして巧みにまとめ上げる技は当代随一だ。とはいえ、室町時代が舞台で、能が題材であるうえ、アニメーションの脚本ともなると勝手が違うのではないかと思われた。が、それもまったくの大きなお世話であった。脚本では、原作のストーリーを劇場映画の尺に合わせ、キャラクタードラマとして整理し、反復するフレーズが生み出す特徴的な文体のリズムも取り入れ、なおかつ映像的アレンジも随所に加えている。まさに職人技である。

 優れた脚本を素直にそのまま映像化するだけでも高得点は出せたはずだが、やっぱり監督の溢れる作家性は止めようがなく、それが映画にとってかけがえのない味になっている――という例では、リチャード・ラグラヴェネーズ脚本×テリー・ギリアム監督の『フィッシャー・キング』(1991年)などが思い浮かぶ。『犬王』の場合も、それに近い。シナリオから映像に至る過程でどのようにブーストがかかっていったのか、両者を比較すると如実にわかる。

 脚本と完成作の最大の違いは、犬王たちのライブシーンである。脚本では、シテ(主役)としての犬王がおり、ワキ(相手方)がおり、ワキツレ(その助演役)がいるといった能の形式に則って各場面が描かれている。いかように演出することも可能な余地が残されているとはいえ、湯浅監督はこれらの見せ場をさらに大胆な解釈で再構築した。

 野外ロックフェスさながらの解放感と大仕掛けで魅せる「腕塚」、幻燈と水飛沫とワイヤーワークを駆使した一大イリュージョン「鯨」、空中と水上をダイナミックに駆ける壮麗なダンスパフォーマンス「竜中将」。琵琶法師・友一(またの名を友魚、あるいは友有)が前座として行う演奏シーンは、まるっきりロックバンドのゲリラライブである。これこそイマジネーションの飛躍がもたらす面白さだ。また、ステージの登場人物をほぼ犬王一人に絞ることによって、その唯一無二の存在感、スター性がより強調されている。犬王役を演じるアヴちゃんの圧倒的パフォーマンス力が、この演出でさらに際立つことになった。琵琶バンドのリードボーカルとして、ソウルフルな熱唱を聞かせてくれる友一役の森山未來も同様である。

 当時は存在しないギターやベースの音が聞こえたり、思わず「こんなことが当時可能だったのか?」と思わせる舞台装置や演出がどんどん出てくるので、これらに戸惑うか、そのまま熱狂に呑み込まれるかで作品の受け取り方は大きく異なるだろう。ちなみに、そのターニングポイントは脚本にも完成作にも、象徴的な言葉でしっかりと描かれている。友一が琵琶法師の集う覚一座で「これより新しい物語を始めたいと存じます」と宣言するシーンだ。まさにその言葉どおり、そこから新しい音楽、新しい熱狂のかたちが画面に奔流となって映し出されていく。

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