意識的に避けられてきた“ストーリー”を破格の予算で描く AppleTV+『パチンコ』の試み
本シリーズは、この第7章で描かれる日本の過去の事件などを扱っていることで、「朝鮮人虐殺はなかった」と主張をする日本の歴史修正主義者から非難を浴びている。その主張は、ナチスによるユダヤ人の虐殺を否定する言説と同様、数多くの目撃者や、各地に慰霊碑がある事実、そして歴史学者の指摘によって、それ自体がはっきりデマだと分かるものだ。そんなデマからさらに飛躍して、本シリーズが日本を貶めるプロパガンダドラマであり陰謀の一環だと述べている日本人が少なからずいることについて、筆者は同じ日本に住む一人として情けない思いになる。
そもそも、在日コリアンの世代を超えた物語を描くときに、関東大震災についての描写があるのは至極当然であり、避け難いことだ。むしろ、例外的な小規模作品は別として、日本の大規模な映画、ドラマにおいて、この事実を描くことが避けられる傾向にあったことの方が、むしろ問題だったのではないか。
第二次世界大戦時の空襲や核攻撃など、日本のマジョリティを含んだ被害は、数多くの作品で描かれているが、逆に日本のアジア諸国への侵略における加害や、民族差別の歴史についての映画、ドラマは、近年では『金子文子と朴烈』(2017年)、『スパイの妻』(2020年)などが挙げられるものの、日本の民衆や軍人が加害者として描かれるケースは希少だというのが実情である。
そのなかでアメリカの作品が、日本で起こった在日コリアンへの歴史的な虐殺行為を、予算をかけた大きなスケールで描き出したことについては、複雑な思いに囚われてしまう。なぜなら、これこそ世界に向けて日本の側から広く配信されなければならない題材であるからだ。
かつてアメリカ映画でも、過去のアメリカの戦争犯罪や奴隷の虐殺など、国の暗部が映画で描かれるケースが稀だった時代はあった。しかし、周知の通り現在では、むしろ自国の間違った部分を内省し、古い思想や差別意識を厳しく糾弾する作品が非常に増えている。そんな状況に比べると、現在の日本の映画、ドラマは、戦前の価値観を自由に批判したり、自国に継続して民族差別があることを追及する意識が低いといえる。逆に、『Pachinko パチンコ』のような海外の作品に非難を浴びせる人々が出てくる始末である。
一般市民や団体、政権からも睨まれるようになった土壌においては、自国を糾弾するような企画を、国内の映画会社やTV局が避けるようになっていったのも無理はないのかもしれない。しかし、映画、ドラマが、そのような空気に抗う姿勢が弱くなったことが、現在の状況に陥る要因となったともいえるのではないか。その責任は、映画、ドラマを評論する側やメディアの側にもある。
筆者は、東北地方で東日本大震災で被災した経験を持つが、そこで「中国人窃盗団が乗り込んできて略奪をしている」など、どこからか広まった噂を、実際に耳にした。それは全く根拠のないデマであったにもかかわらず、それを信じた人が86%にも及んだことを、後に東北学院大教授が調査している(※)。関東大震災の起こった大正時代に起きていた民族的な差別は、現在の日本にも根強く残存しているのだ。
本シリーズは、たしかに日本の過去の罪を描いている部分がある。とくに関東大震災の虐殺は、胸を貫かれるような思いに囚われる。だがそれは議論の余地のない事実に基づいているため、日本の視聴者がそれ自体に反発しても意味がなく、その態度を貫こうとしていくと、陰謀論や歴史修正主義に巻き込まれることとなる。それよりも自分たちのルーツにある人々が何をしてきたのかを知り、他の国でも起きている差別や戦争犯罪などと同様に批判し、同じ悲劇を繰り返さないように努力するべきだろう。
本シリーズのタイトルでもある、「パチンコ」という業態が象徴するのは、「どんなカネでも、カネはカネだ」と劇中でも語られているように、人間は生き抜くために往々にして“きれいなまま”ではいられないという悲劇的な意味合いが込められているように感じられる。
しかし、きれいなままでいられない状況を生み出している要因には、社会の環境や国ぐるみの差別があったことも確かなのだ。その事情を理解することもできるドラマ『Pachinko パチンコ』は、われわれの身近にありながら、意識的に避けられてきた「ストーリー」が語られるという意味で、日本の視聴者にこそ観てもらいたいシリーズである。
参考
※ https://www.sankei.com/article/20170117-J22HTROQ4VMPHIZRSOXDRHUEKQ/
■配信情報
『Pachinko パチンコ』
Apple TV+にて配信中
出演:ユン・ヨジョン、イ・ミンホ、キム・ミンハ
監督:コゴナダ、ジャスティン・チョン
画像提供:Apple TV+