菊地成孔の『イン・ザ・ハイツ』評(中編):掛け値無しに素晴らしい音楽について

菊地成孔の『イン・ザ・ハイツ』評(中編)

第2回『イン・ザ・ハイツ』(ジョン・M・チュウ監督/2021年7月20日公開)/ミュージカルが持つエネルギーと、移民問題が持つエネルギーの衝突とその結果(中編)

さて日本ではどうなる?

 前編では「リアルな人種(差別問題)」を「ミュージカル」という夢の器に乗せて食えるかどうか?というシンプルな立論を、「移民問題ミュージカル」の開祖であると言える『ウエスト・サイド物語』から時系列順に、2系列(映画と舞台)に並べてみることで、『イン・ザ・ハイツ』の歴史的な位置を確認してみた。

 コロナ前に撮影され、今年公開された『イン・ザ・ハイツ』は、舞台版も、ミュージカル映画版も、実は「2作目にしてミドルスクーラー。<映画版>に限って言えばニュースクーラー」であることがご確認いただけたと思う。

 そして「原作」としての舞台版、映画版、双方併せ『イン・ザ・ハイツ』の前門の虎がスピルバーグ版『ウエスト・サイド物語』、後門の狼が、作者自身による舞台版の『ハミルトン』(前編に書いた通り、「映画化」は計画されたが頓挫し、「舞台中継版」という形式の映画作品がある)、という、非常にタフな状態が、そもそもこのジャンルの作品数自体が極めて少ない(数少ない作品が皆、それぞれ傑作)ことに由来する、嬉しい悲鳴の類であろう、とするのが、本作への最も愛のある見立てとなる(本作は、興行成績のみにフォーカスするならば、予測値/期待値を下回ったが、前回にあるように、批評では優秀な結果を出している)。

 若干スリップするが、二種の合成物、その原料を双方ともに自国で生み出した母国、合衆国でさえ、その作品数が少ない「移民問題ミュージカル」という形式の、実質上の同盟国である我が国における観客のリテラシー/リアリティ双方の低さは、世界でも有数ではないかと思われる。

 「『パッチギ!』舞台版を宝塚もしくは劇団四季が上演したらどうなるか?」「在日コリアンの<ハイツ>である大久保を舞台にした、ヒップホップミュージカルを、在日コリアンの監督とスタッフで製作したら、どんなものになるだろうか?」「いや、大久保にある<ハイツ>は、今やアラブ社会の人々も含めた多民族地帯なのだ。<ウエスト・サイド・ストーリー>型の作劇の方がよりリアルであろう」「そしてそれ等は、いずれにせよ<問題作>ではなく、<大衆娯楽作>にならないといけない。という条件付きである」と書けば、その異物感(快、不快は別として)が些かリアルになるだろう。

 良くも悪くも、としか言いようがないが、我が国のそれは、監督が自ら<ミュージカルにもヒップホップにも無知>であることを公言したまま製作された園子温の珍作『TOKYO TRIBE』(2014年)しか存在しないのである。

 『TOKYO TRIBE』か? 「『イン・ザ・ハイツ』日本版上演」か? これが我が国の、現状でのリミットなのである(どちらも公式サイト/Twitterがあるので、是非その相貌を見比べてほしい)。この事実が、我が国の国民の1人である筆者の、本作への問題意識の一端を担うことは言うまでもない。

 という前提で、後編である今回は、本作の音楽と作劇に関して検討してみる。前後編で完結する予定だったが、音楽に関する批評が長文化したので、今回を中編とし、物語構造に関しては次回を後編(完結編)とする。

『イン・ザ・ハイツ』の音楽

 最初に結論を述べてしまえば、前編で走り書きした通り、『イン・ザ・ハイツ』の音楽は、パワフルな天才リン・マニュエル=ミランダ(作詞、作曲、編曲も全てこなすミュージカル音楽家は、増加傾向にあるとはいえ、まだまだ希少である。彼のパートナーであり、編曲と指揮を担当するのはキューバ系の俊英、ハリウッドとブロードウエイのアワード・ゲッターであるアレックス・ラカモア。ちなみにバークリー音楽院卒業)の、鳴らせまくり、まとめ上げまくる手腕によって、大変素晴らしい水準にあるが、意味としては「ラテン・フレーヴァーをたっぷりと効かせた、ミュージカル音楽」の枠は出ない。しかしこれは、誹謗や矮小化を意味するものではない。

 というより、そもそも、11月19日にNetflixで配信開始される長編初監督作『tick, tick…BOOM!:チック、チック…ブーン!』を作り終えているとはいえ、リン・マニュエル=ミランダは<あくまで、今のところ>とするが「ブロードウエイの住人」であり(本作でも、監督はーー中国移民の子であるが、カルフォルニアのパロアルトという有名な高級住宅街で生まれたエリートであるーージョン・M・チュウに振っているし、頓挫した「ハミルトン映画版」も、制作および脚本の執筆までは自らがやると公言したまま、監督名は出さずにいた)、未だ白人の帝国であるブロードウエイ界にあって、父方の血族全員がプエルトリコの血を引き、母方の祖先にメキシコ人がいることにより、プエルトリコ/北米/メキシコのクォーターであるという民族的出自を元手に、ヒスパニックのカルチャーをゴンフィンガーでぶっ放し得た、最初の英雄であることは間違いない。

 この英雄的業績を、素直に讃えるかどうか?という問題も、本作への評価を複雑化させている。『ハミルトン』がブロードウェイ並びに合衆国政府にまで揺さぶりをかけた爆発物だったの対し、『イン・ザ・ハイツ』は「ヒスパニックのコミューン」という存在をミュージカルの一素材として、音楽的手腕でまとめあげた安全な物件である。

 シンプルに、『ハミルトン』さえなければ、本作は、観るものをグラつかせることはなかっただろう。『ハミルトン』の音楽と設定は、文化的搾取に対する再搾取、もしくは逆搾取ともいうべき、(まだクチバシが青いままの)<多様性社会>に於ける、レコンキスタドール。という、恐るべき立場にまで立ったが、『イン・ザ・ハイツ』は、第一に、音楽的には後述する中南米一帯の豊かな文化を、ミュージカル界に搾取されることを善しとし、以下ドミノセオリー的に、物語設定、作品の位置までも搾取の構造に飲み込まれている。このことは正反対の評価が可能だ。段階的な革命の初動か、世界市場対応としての妥協か。

 とまれ、本作の音楽は掛け値無しに素晴らしい。特に、冒頭から実に約20分間に及ぶ<クラーベの保持>は、世界中の中南米音楽の愛好家をして唸らせる「素晴らしいアイデア」であり、オーソン・ウエルズの(奇しくも、敢えて原作から舞台をメキシコに移した)ノワールムーヴィー『黒い罠』(1958年)の、有名なオープニングの長回し(3分21秒)へのオマージュではないかと思わせるものがある(ちなみに本作では、バズビー・バークレーが振り付けを担当した『百万弗の人魚』から『フェリーニのアマルコルド』まで、欧米のクラシックスへのシネフィル的オマージュが散見される)。



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