菊地成孔の映画蔓延促進法 第2回(中編)
菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(中編):映画が「ジャンル」自体をチェンジしてしまう時に発生する「怖さ」の質と量
もう1作、つまり失敗例は、クエンティン・タランティーノが脚本(出演)、舎弟のロバート・ロドリゲスが監督、そして両名とローレンス・ベンダーが加わった3名が製制作総指揮を務めた1996年の『フロム・ダスク・ティル・ドーン』である。
『サイコ』から36年の時を経て、タランティーノが敢然と『サイコ』の構造に挑戦したが、残念ながら興収、批評ともに失敗作の烙印を押されている、と評価できる(筆者は個人的に好きだが)。
こちらは、連続殺人犯である兄弟のメキシコ国境突破による国外逃亡計画と、それに巻き込まれて同行する、牧師をやめてさすらう父親と2人の娘が、無事メキシコ国境を越えてから、一転してド派手なB級ヴァンパイア・アクションに変わる。『サイコ』同様、前半のサスペンスが緻密で強く、手に汗握るが、後半の、大量のヴァンパイアとの闘いは、マカロニウエスタン/カンフー映画/低予算戦争映画的な、あ敢えてのB級アクションで、ユーモアも豊富に混じり、『サイコ』とは<見終え感>がだいぶ違うが、その違いは結果として、前述、興収も批評も優れず「つまらない逃亡劇とつまらないヴァンパイア映画のハイブリッド」とまで言われた。
36年の間に「ハイブリッド」という概念と現象が行き渡っていたこと(「ハイブリッド」は俯瞰=冷静を前提とした視点で、コンビネーションやキメラ等々と似た眼差しの在り方で、どの芸術にも散見されるが、『サイコ』の強度には俯瞰が入り込む余地など全く無かった)、大変な映画マニアでありながら、いざ具体的なリスペクトやオマージュを決行すると滑りがちなタランティーノの低打率、というリスク計算も可能だろうが、筆者は「前半緊張して、後半は弛緩する」という方法が市場に受け入れられなかったとしか思えない。
繰り返すが前半の緊張感は素晴らしく、タランティーノの脚本家=劇作家としての安定的な腕の冴えが輝く。特に、本作が代表作といってもいいのではないだろうか?というほどの、ジュリエット・ルイスの無垢なセクシーさが、殺人を殺人とも思わない凶悪犯兄弟の弟(タランティーノ演)の視線キャメラによって、レイプされ、殺されるのでは?という緊張感を極限値まで高め、牧師をやめ娘と放浪している男(なにせハーヴェイ・カイテル演)による復讐の爆発力への妄想誘導も併せ、そもそも脅迫されて、嫌々呉越同舟となった5人による、薄紙一枚のチームワークが、国境突破というミリ単位のミッションをいつ、どんな手酷い形で崩壊させるのか? それともぎりぎりで逃げ切れるのか?と固唾を飲んでいると、これが何と、結果として無事成功する。
一行は、『サイコ』のジャネット・リーと同様、凄まじい緊張感から一時的に解放され、営業し始めたばかりのトップレスバーで一夜を過ごすことになる。『フロム・ダスク・ティル・ドーン』とは<夕暮れから夜明けまで>の意味で、このトップレスバーの営業時間を示す。以降、最初のヴァンパイア登場から、呉越同舟の5人組は、夕暮れから翌朝まで、夜を徹してヴァンパイアと闘う羽目になる。一気に<別のジャンルの映画>になるという意味で、構造自体は『サイコ』と全く同じである。
以下は筆者の推測に過ぎないが、前述、市場から「90年代的な<サイコ>へのオマージュ傑作」とみなされない、という(おそらく「タラ&ロドリゲス痛恨の」)陰性反応を導いてしまったのは、<後半は別の映画になる>その後半自体に於けるスキルではない。単にヴァンパイアアクション映画としては、かなり高水準にあると言える。
それよりも『フロム・ダスク・ティル・ドーン』が招いた失敗の原因は、前述、ユーモラスで退行的でさえある「エログロB級ヴァンパイア大虐殺」を「後半」に持ってきたことにより、「途中でふざけはじめた=途中から手を抜いた」という態度に解釈された結果の、心理的な反応ではないかと思う。
さらに厳密にいうと、「途中から手を抜いた」というより、「途中から現実に戻った」とするべきであろう。つまりテレビ番組における「ドッキリ」効果である。アレに仕掛けられた者たちの反応は強烈にして同質になる。「種明かし=現実に戻す」ことにより、「なんだよコレ〜」「やめてくれよ〜」「くっそう、ドッキリかよ〜」という腰砕け以外の反応を、「ドッキリ」は許さない。「ドッキリ」の画面は、ニヤニヤした者(仕掛けた側)と、腰が抜けた者(仕掛けられた者)が半分ずつ映っており、それによる効果は「見事ないたずらの成功劇」以上でも以下でもない。この作品は、この効果を不可避的に持ってしまっている。
タランティーノは失敗した。事前にリスクヘッジできなかった理由の第一は「どうしてもエログロB級ヴァンパイア大虐殺」がやりたかったから。だろうが、第二以下の中の、比較的強いファクターとして「『サイコ』のパロディやスピンオフの多くがギャグであった」という事実にまでリスペクトしてしまった。と仮説できる。
続編や数多くのスピンオフやリメイクを生んだ『サイコ』だけではなく、『エクソシスト』(1973年/ウィリアム・フリードキン監督)も同様に、パロディやスピンオフ、フッテージ等々にギャグ感があるものが多い。これは巷間、「あまりの恐怖は笑いを生む」という、一種の心理的な反作用のようなものではなく、与えられた恐怖が度を越すことで生じる、恐怖記憶が定着することからの逃走行為、もしくは洗浄行為である。
程度を変えれば、この逃走、洗浄の対象が強いショックではないケースとして「エンドロールでのオフショットやNG集」の類が、中程度のショックを、小気味よく現実に戻す行為で、それはステージアクトにおけるカーテンコールの役割を果たし、陰性反応は多く残らず、独特のチルアウト感覚をもたらす。カーテンコールが義務付けられているオペラなどのシアターアクトでは、どんな残虐で陰惨な死があっても、粛々としたチルアウトに拍手が送られるが、映画では義務付けられてはおらず、初中期のマーヴェル作品のように「エンドロールが終わってもおまけのシーンがありますよ」といったサーヴィスショットがメインとなる。
『フロム・ダスク・ティル・ドーン』は『プロジェクトA』(1983年/ジャッキー・チェン監督)や『時をかける少女』(1983年/大林宣彦監督)ではない。作劇は完遂され、構造的には『サイコ』と同様である。しかし、<後半>の質が血だるまエログロファンタジー=フェティッシュで退行的でユーモラスでパワフル)であることにより、何か、コミケのコスプレヤーブースのようなパーティー的な効果を生み、リスペクトはリスペクトとならず、オマージュはオマージュたり得なかった。
こうして、「ある恐怖が全く別の恐怖に変わる」という、容赦のない『サイコ』の反復悪夢的(悪夢から覚めたと思ったらまた悪夢、といった)な構造は、未だに後継を生んではおらず、結果としてタランティーノは『サイコ』に対し、敗北的なリスペクトを捧げることによって、「やっぱ<サイコ>の後継は難しい、あるいは無理」という評価を盤石にしかけた。これはかなりの痛恨であったはずだ。
そして、不屈のタランティーノは、この失敗の二の轍を踏むまいと、自らメガホンもとり、凝りに凝った脚本と、緩むこと事なき構築ハンドリングによって、11年後に『サイコ』の異型とも言える傑作を生み出すことになる。
それが『デス・プルーフ』(2007年)である。残虐な快楽殺人犯=ミソジニストによる、おぞましいフェティシズムの完遂、が、勇猛なガールズフッド=フェミニストによって打ち砕かれ、痛快コメディに変わる。しかし、前半も後半もハンドリングとストイシズムがしっかりしており、遊んだり楽しんだりしていない。
これが『フロム・ダスク・ティル・ドーン』の反省を生かし、フェティッシュで退行的な前半(女性を手製の拷問具で殺害したり、車で轢き殺してバラバラにする等々)を、「萌え狂っているていで」しっかり計画的な演舞として設置し、(「ジャンルが変わってしまう」ような猛烈な逆転劇を自虐ギャグに昇華させ)一挙に反転させるという、萌えの抑制と知的制御の賜物である。『デス・プルーフ』は「『サイコ』の後継」とみなされているかどうかは別として、タランティーノ00年代の最高傑作の呼び名が高い。