菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(前編):絵に描いたように<古くて新しい>傑作

菊地成孔『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評前編

<なので、前編では>

 「どんでん返された者」の主観で、本作の開始までを記することにする。多くの鑑賞者が、まんまとこの罠にはまるのである。映画マニアとしての等級がいかほどであろうと、それは無関係であるので、映画マニアとしての等級は筆者のそれと同等とする。

 そもそも、本作を、アン・リーの、規格外の文芸作である『ブロークバック・マウンテン』掛けるところの『ピアノ・レッスン』であると当たりつけずにいられる映画マニアはいないだろう。台湾移民が手がけたヴェネツィア金獅子と、ニュージーランド出身の女性監督が手がけたカンヌ金椰子(パルムドール)である。

 そして前者は時代設定が63年から20年間、後者は1800年代だが、どちらもセクシュアル・タブーが作品の中枢を成す。前者はアメリカ中西部で男性同士が愛し合い、後者は2世紀前のニュージーランドで、唖者でピアニストの既婚女性が、原住民(マウリ族)と同化した男性と愛し合う。どちらも性愛が含まれ、どちらも主要キャストの多くが「気持ち悪いのとギリギリの美貌」を属性としている。さらに、どちらも音楽が非常に優れている(特に『ピアノ・レッスン』は、スタンダード曲化した。これは90年代付近の映画としては『ニュー・シネマ・パラダイス』と並ぶプライズで、逆に言うと「いかに<60〜70年代映画のテーマ曲のヒットが、下衆でベタベタだったか?>ということを逆照射している)。

 こうした、歴史と個人的記憶に基づいた先入観を、本作は偏見として拒絶しない。むしろ(ミスリードのために)大いに召喚を促す。ここが本作の罠のヤバいところである。しかし本作の何より最もヤバい点は、あの異貌、ベネディクト・カンバーバッチ=フィルがヒゲを蓄え、不潔だが正統のカウボーイルックにすれば、キアヌ・リーブスぐらい普通の男前に見えるということを明らかにしたことである。

 そしてそれは、「この人、本当は女優さんです」と言われても特に驚きはしないほどのコディ・スミット=・マクフィー=ピーターの、もう、ちょっと恐いよ、というほどの美少年ぶりによる麻痺効果かもしれないのである。

 彼の母親はラース・フォン・トリアーのシャクティパットによって鬱病とかアル中とかの演技に開眼してしまったか、奇形西部劇のクラシックスである『白い肌の異常な夜』の実質上のリメイクである『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』でも、性欲を極度に抑圧されたバイブルファンダメンタリストの醜女を見事に演じたキルスティン・ダンスト=ローズ(誰の責任かは知らないが『チアーズ!』の彼女を少しでいいから返してほしい。今の年齢で)。当然、息子は溺愛されているであろう(そしてピーターは母親をママと呼ばずローズと呼ぶ)。

 要するに、映画の面構えとしては、<ミスリード先用>にも、<どんでん返し後の正体>にも、どっち用にも揃っている。ここも意識的な仕掛けだったらかなりヤバい。

 ジェーン・カンピオンの最新作である本作は1925年のモンタナ州が舞台の、実質上の西部劇だ。西部開拓時代はほぼ終わっており、先住民族との共存もフラフラだがウォークしていて、歴史は世界大恐慌直前のローリング・トゥエンティだが、全盛期を過ぎたとはいえ、カウボーイカルチャーは、ゲイ、ホモフォビア、ホモソーシャル、マッチョイズム(余計な挿話だが、本作はクリント・イーストウッドの最新作『クライ・マッチョ』と、はしご鑑賞を強くお勧めする)を、なみなみと湛えて健在である。

 しつこいようだが、『ブロークバック・マウンテン』×『ピアノ・レッスン』だと引っ張られない鑑賞者がもしいたとするならば、この、なんでもいつでも観れる世にディズニー映画しか観ない人物であろう。なにせ、未亡人ローズの運命を変えるのは、他ならぬ2台のピアノなのだし彼女が心を奪われるのは、彼女とは別の種族とも言える、「カウボーイカルチャー」というワイルド極まりない男たちの中の、ドロップアウターとリーダーなのだし。

 冒頭のナレーションはピーターのもので、「お父さんが死んだ時、僕は誓った。僕がお母さんを守ってゆくんだと」と、要するに<冒頭から一応、伏線は張ってある>のだが、ナレーションがこの1回だけであること、そして何より、それに続く、圧倒的な光景と素晴らしい音楽によって、この伏線は吹き飛ばされてしまう。<うっわ〜、金かかってんな〜>という俗な気持ちと<なんという自然美だろう>という映画的感動が同時に襲いかかってくる画面は、本当に久しぶりだ。

 続いて、重々しく「第1章」という章立てが映ることで(これが原作小説とどのような関係にあるのかは調査できなかった。ただ、演劇の幕割りのように、綺麗に事立てて割られる「章」は、中盤から割られなくなる。ミスリード用で、実質は不要だからであろう)、「うわあこれ大変な文芸作で、<知性に訴える>んだなあ」と完璧にヤラれてしまう。

 衣装、キャメラ、外形、セット、そして時代考証も完璧に近い。タイトルにも物語にも多いに関わる山脈、そこをまるで生ぬるい溶岩であるかのように流れてゆく、圧倒的な数の牛の群れ(これがCGだとしたら、筆者はもうCGと実景の区別ができない目になってしまったと言えるだろう)、空気感まではっきりと伝わる画面の透明度と埃の嵐は、鑑賞者にさらなる鞭を打ち、「これはチャラいBLとかではないぞ。文学だ。人間ドラマなのだ、何せまずは第1章だ」と襟を正す。

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