下北沢で生まれた映画がついにソフト化 『街の上で』が描いた“脱線”と“余談”の記録

『街の上で』“脱線”と“余談”の記録

 僕は寄り道の愛おしさを知っている。ふと思い立っていつもと違う道を歩いてみても、取り立てて何かに出合うわけではない。同じようなアスファルトがあり、同じような建物が立ち並び、どこにでもいる野良猫が歩いていたりするだけ。でも、何かに出くわす“可能性”だけは秘めている。その予感だけでもう十分なんじゃないかと思ってしまう。

 例えば、ポスターを見ただけでビビッときた映画を映画館に観に行ったら、予想を越えて胸に刺さってしまったとき。あるいはつまらなさすぎて爆睡して、2度とこんな映画観にいくもんか!と吐き捨てたとき。

 外食するなら食べログを見てしまうし、映画を観るにもFilmarksの点数を気にしてしまう。どこかに向かうときはいつもマップで最短経路を検索して、あらゆる流行はTwitterで押さえようとしてしまう。愚かだと思いつつもスマホを手放すことができないのは、なるべく失敗したくないからだし、効率のよさみたいなものを志向してしまう自分がいるからだ。でも、そういうものにまったく縛られない、偶然の出会いの美しさも知ってはいるはずで……。人と会話しているときに話が脱線しすぎて、「あれ、いまなんの話してたんだっけ?」となる瞬間が好きなはずだった。

 『街の上で』という、今泉力哉監督が下北沢で撮った映画は、まさしくそうした「寄り道」「脱線」「余談」「予感」が連なった特別な時間を描いている。驚くことに、「これをやっておけば安パイだろう」みたいな考えを持っている人物がひとりも出てこないのだ。悪く言えばみな不器用。

 古着屋の店員である主人公の荒川青(若葉竜也)はある日、店にやってきた美大生に「映画に出てくれませんか?」と誘われる。いわゆる学生映画だ。「演技なんてできないしな……」と悩みつつもその誘いに軽々とのってしまうこの行動は、青の無邪気さを表していると思う。彼はふらっとライブハウスに行ったりするし、思い立ったように道路を横断して劇場のポスターを眺めたり、店に入ったりするし、古本屋の店員のプライベートにむやみに踏み込んでしまう。今泉監督は本作について「荒川青がいろんな人や物事に巻き込まれていく話」と語っていることがあったが、むしろ青は「自分から巻き込まれにいっている」と言ってしまってもいいくらい純真で、ある意味確信犯的だ。

 そんな人物が主人公であるから、どうしても愛すべき映画になる。起承転結のわかりやすい一本筋の通った物語というよりは、脱線に脱線を重ね、余談だけで紡いだような映画。でも考えてみれば、人生ってそんなものかもしれない。明確に何かをしている時間(食事、睡眠など)に比べて、振り返ってみると何をしていたか一言では表せない時間のほうが圧倒的に長い。その余白こそ美しかったのだと、『街の上で』は思い出させてくれる。

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